24.セクハラ☆部長

店を出ると、水野さんに促されて駅前のタクシー乗り場へ向かった。
水野さんの少し後ろを歩いていく。
すると突然、水野さんが「あ……」と小さく声をあげ、歩をゆるめた。
ん? なんだろう?
水野さんの視線を追うと、6,7メートル先に、さっき別れたばかりの大前さん。
そして、その隣には、恰幅のいい50がらみの男性が機嫌良さげに笑っている。
そういえばさっき、大前さん、取引先の部長さんと会うって言ってたっけ。
あの人がそうなのかも。
そう思いながら見ていると、ふと、その男性がこちらを見た。
あたしの前にいた水野さんが、すかさず頭を下げる。
「いつもお世話になってます!」
すると、男性は鷹揚に頷きながら、手まねきしてきた。
水野さんは腰を低くしてその人に近づきながら、小声であたしに「ABCコーポレーションの本郷部長だよ」と教えてくれた。

水野さんとあたしがそばに行くと、本郷部長はあたしを指差して聞いてきた。
「水野さんの彼女かい?」
水野さんがいえ、と手を振ると、その質問には、本郷部長と一緒にいた大前さんが答えてくれた。
「彼女はうちのSEで、御社のシステム開発をさせていただいている部署の者です」
大前さんがそう紹介してくれたので、あたしは名刺を取り出した。
うちのグループが関わっている会社の部長さんなら、きちんと挨拶しないとね。
仕事モードに気持ちを切り替えて、本郷部長に頭を下げる。
「システム開発グループ、パッケージ開発課第1チームの、桜井と申します」
すると、本郷部長は、あたしの名刺を受取りながら、上機嫌で誘ってきた。
「おおそうかそうか、いやあ、お世話になってるね。
これから大前さんと飲みに行くんだが、どうだい、一緒に」
それを聞いた大前さんは、なぜだか、ひどく慌てた様子を見せた。
「いやいや! 本郷部長、今日は私がいいところにご案内しますから」
でも、本郷部長は、聞く耳を持たない。
「うん? いいじゃないか。たまには若い人たちと飲むのも、悪くない。
みんなで行こうじゃないか」
「いえいえ、本郷部長、これから行くところは、こんな若い奴らにはまだちょっと……」
大前さんも負けじと、本郷部長の袖を引き、内緒話をするように声をひそめて、説得している。

大前さん、どうしてもあたしと水野さんを二人っきりにさせたいのかな?
それであんなに必死に、本郷部長を説得しようとしてるのかも。

でも、本郷部長は自分の思いつきを曲げる気はないらしい。
「いやいや、君と二人で飲みに行くのも飽きてきた。
今日は大勢で行こう。そら、行くぞ行くぞ!」
そこまで言われては、もう大前さんも逆らえないみたい。
取引先のお偉いさんだものね。
当然、水野さんとあたしには、選択権はない。
結局、あたしと水野さんもついていくことになった。

大前さんの案内で、会員制クラブに入ると、和服姿のママさんと華やかなドレス姿のホステスさんが出迎えてくれた。
ママもホステスさんも心得ているようで、二人で本郷部長をはさむように立ち、にこやかに部長を歓迎している。
その隙に、大前さんがすまなそうに耳打ちしてきた。
「悪いね、付き合わせちゃって。笑顔で適当に話合わせておいてくれる?」
あたしは大前さんの目を見て、そっと頷いた。
取引先のお偉いさんと飲むのなんて初めてだけど、失礼のないようにしなくちゃね。

クラブは、短いカウンター席と、テーブル席が4つあるだけのこじんまりした、落ち着いた感じのお店だった。
ママさんは40代くらいの小柄な美人、ホステスさんは出迎えてくれた人と、店の奥で先客についている人と2人いたけど、どちらも20代後半くらいかな。
あたしたちは、お店の入り口に近いテーブル席に案内され、本郷部長が奥のソファに座ると、あたしは本郷部長の左隣を勧められて座った。
高級そうなソファはやわらかく、座るとほどよく体が沈みこむ。
ソファの前には長方形のローテーブルがあり、角をはさんであたしの左のスツールに水野さん、本郷部長の正面の一人掛けソファに大前さん、本郷部長の右のスツールにホステスさんが座った。
あたしたちがそれぞれ席に着くと、ママさんはやわらかい笑顔で挨拶し、先客に呼ばれてそちらへいってしまった。

ホステスさんが作ってくれた水割りで乾杯を済ませると、本郷部長がさっそくあたしに話しかけてきた。
「で、かりんちゃんはいくつ?」
うわっ、いきなりちゃん付けですか?
しかも、女の子に年齢を聞いてくるって、どうなの?
そう思ったけれど、表面上は平静を装って、素直に答える。
「入社して2年目で、21歳です」
「ふうん、彼氏は?」
はあぁ?
年の次は彼氏?
初対面なのに、ずいぶんプライベートな質問してくるんだなぁ、この人。
なんか、ちょっと嫌な感じ……。
こんな質問もちゃんと答えなきゃいけなんかなぁ。
あたしはちらっと、大前さんを見た。
目が合った大前さんは、ちょっと申し訳なさそうな顔で、小さく頷いている。
その表情を見て、さっきの囁きが蘇った。

『笑顔で適当に話合わせて』

そうよね、相手は取引先の部長さんだものね。
ここは押さえて、押さえて。
あたしは、笑顔で、当たり障りのない返事をすることにする。
「いいえ、いません。今が仕事が恋人です」

なーんちゃって。
どうかな? 模範解答だった?
ちゃんと社会人っぽく答えられたかなって、自己満足してたんだけど。

「おや、そうなの? そうは見えないけどなあ。
今はいなくても、学生時代はいただろう?」

うっ、なにこの人、まだ突っ込んでくるの?
ちょっとしつこくない?
ここは、笑ってごまかすかな……。
でも、まだ席について乾杯して、水割りひと口か二口、飲んだだけだよね?
酔ってもいないうちから、こんなこと聞いてくるかな、普通?
あ、そういえば。
さっきここに来る前に、大前さんがあたし達を帰らせようとしてくれてたけど、あれって、あたしと水野さんを二人きりにさせたいからって理由だけじゃなかったのかも。
この人と一緒に飲まなくていいようにしてくれようとしたんじゃないかな?
だって、この部長さん、ちょっとひと癖ありそう。
なんか、やな感じ……。

あたしはごまかそうと、ちゃんと返事しなかったんだけど、本郷部長はしつこく聞いてくる。
しかたないから、「はぁ、まぁ……」ってあいまいうなずいたんだけど。
途端に、本郷部長はニヤニヤしだした。
「おお、そうだろ、そうだろ! モテそうだもんなあ。それにしても……」
そこでいったん言葉を止めた本郷部長は、あたしの顔、胸、足、と全身を舐めるように見てきた。
「21歳には見えないよなあ、制服着ればまだまだ女子高生で通るんじゃないか?
んん?」
いやらしい顔で目を覗き込まれ、あたしは「いえ…」と乾いた笑いを返す。

うー、この人、ホント、やだぁ。
そんな目で見ないでよ、セクハラ親父!

「こんな可愛いのに彼氏がいないなんて、信じられないよなあ?」
同意を求められた大前さんは、如才なく「そうですねえ」なんて返している。
それに機嫌をよくした本郷部長は、またあたしの体をじろじろ見ながら言った。
「かりんちゃんも、学生時代には援交とかしちゃってたの?
そうだなあ、君なら10万でもいいかなぁ。結構稼いでたりしたんじゃないの?」

はあぁぁぁぁ?
これには、追従笑いしてた大前さんも、かなり顔を引きつらせている。
援交って!!
あー、もう帰りたい!
作り笑いするのも苦痛になってきた。
もうこうなったら、飲もう。
でも、ふんわり体を包み込む上質なソファに座ったままだと、テーブルの上のグラスに手が届かない。
あたしは、ソファから少し腰を浮かせ、テーブルの上の水割りに手を伸ばした。
そして、グラスを取り、再びソファに腰を下ろした、その時。
――むにゅ。
お尻で、なにかやわらかいものを踏んだ感触……。
「え?」と思うと同時に、そのなにかが、お尻の下でうごめいた。
これは……、手だ!
誰かの手が、あたしのお尻を揉んでる!!
「いやーーーーっ!」
あたしは思わず飛び上がるように立ち、ソファにふんぞり返っている本郷部長をぱっと振り返った。
案の定、本郷部長の手のひらが、あたしの座っていた場所にある。

「…………」

その場の、全員が沈黙した。

あ、まずい……!
そう思ったけど、もうあとの祭り。
凍りついた空気を破ったのは、本郷部長の不機嫌な声だった。
「フン、なにも生娘じゃあるまいし、そんなに嫌がらなくたっていいだろう!」

ええええええええええ?
な、なに逆ギレしてんのよ! 信じらんない!
もう限界!!

「あ、あたし、失礼します!」

大前さんと水野さんが、ハラハラした顔で間に入ろうとしてるのがわかったけど、もう我慢できなかった。
あたしはソファの上に置いたバッグに手を伸ばした。
帰る! 誰が何と言おうと、あたしは帰る!
ところが。
バッグをつかもうとした手を、本郷部長にグイッと引かれた。
「座れ!」

はあ? 冗談でしょ。
あたしはその手を振り払う。
「離して下さい!」
すると、本郷部長が声を荒げた。
「おい、おまえ! 俺が座れと言ってるのが、わからんのかっ。
俺はおまえの会社の得意先の部長だぞ!」

さ、最低っ!
なんなのよ、この人!
権威をかさに着たセクハラ親父!!
だいっきらい!
でも。
この人は、得意先の部長。それは事実で。
あまりの悔しさに唇を噛んだけど、でもそう言われてしまったら、帰ることはできなくて、あたしはその場に立ち尽くした。

席を立って、あたしの肩に手を掛けたのは、大前さんだった。
「えーっと、まあまあ、かりんちゃん、とりあえず座ろうか」
あたしが仕方なく座ると、立ち上がったときに少しこぼれたグラスの周りをホステスさんが拭いてくれた。
「お洋服は濡れなかった?」
おてふきも渡してくれ、新しい水割りも作ってくれる。
「本郷さんのも、頼むよ」
大前さんは、本郷部長のグラスもホステスさんに渡した。
それを見ながら、本郷部長が、いまいましそうに吐き出す。
「フンッ、まったく、最近の若いのは、礼儀をわきまえないけしからん奴ばっかりだな!」

はああ?
なによそれ、礼儀知らずはあんたの方じゃないっ!

本郷部長は大声で文句を言い続けている。
「接待の仕方も知らんようじゃ、社会人失格だな。
大前さんよ、オタクの会社、もうちょっと新人教育しっかりしくれなきゃ困るな」

なによっ!
セクハラを受けて笑ってろなんて新人教育、どこの会社がやるもんですか!!
あたしはじっと膝の上で両手を握り締めて耐えていたけれど、悔しくて悔しくて、涙が浮かんできた。
するとその時、奥の席で先客の相手をしていたママさんがやってきた。

「あらあら部長さん、どうなさったの?
うちのお店にいらした方には、皆さんに気持ちよくお酒を飲んでいただきたいのよ」
にこやかにそう言いながら、「失礼」とママさんは、ホステスさんを立たせてそこに自分が座る。
ママさんは、本郷部長に膝がぶつかるくらいにスツールを寄せた。
そして、至近距離から、にっこり本郷部長に微笑みかける。
おかげで本郷部長のいやらしい視線は、ママさんに釘付け。
本郷部長の視線があたしから逸れると、あたしの目から、こらえていた涙が膝の上にポトポトとこぼれた。

くやしい……。
こんな最低な奴のために泣きたくなんかないのに。

すると、膝の上で固く握り締めたあたしの両手を、だれかの掌が優しく包みこんだ。
え?
掌の主を目で探すと、隣の水野さんと目が合った。
水野さんが、テーブルの下から手を伸ばし、そっとあたしの手に重ねてくれていた。
水野さんは複雑な表情であたしを見つめている。
その目に浮かんでいるのは、悔しさ、もしくは、切なさ……?

きっと、本郷部長の前じゃ、堂々とあたしをかばうことはできなくて、でも、あたしを慰めてくれようとしているのは、あたしを見つめる目から窺い知れた。
水野さんは、目が合ってからも、あたしの両手を覆うように握り続けてくれている。
あったかいな……。
水野さんの手から伝わる温かさが、固くなった心をほぐしてくれる。
いつぃか涙は止まっていた。
高ぶっていた気持ちも、徐々に落ち着いてきた。

ママさんは、ずっと本郷部長に話しかけ続けている。
話し上手なママさんの穏やかな声を聞いているうちに、本郷部長も大人しくなっている。
そこへ、バーテンダーがフルーツの盛り合わせを持ってきた。
「私のおごりよ、どうぞ召し上がれ」
ママさんは本郷部長の口の前に、ピックに刺したメロンを差し出したが、部長はそれを押しやった。
「あら、部長さんは果物はお嫌い? じゃあ、お寿司でも取りましょうか?」
ママさんは小さく笑いながら、本郷部長の顔を覗き込む。
「いらん」
大声を出すのはやめたようだけど、本郷部長の機嫌は完全は回復してないみたい。
すると、大げさにため息をつきながらママさんが言った。
「あーあ、殿方はどうして若いお嬢さんがいいのかしらねえ。
気持ちよくさせる技なら私のほうがずーっと長けてると思うのに、年々お呼びがかからなくなるのよ。まったく嫌になっちゃうわー」

ええええええっ?
あたしはびっくりした。
だって、こんなに上品そうなママの口から、そんなセリフが出てくるなんて……。
でも、それを聞いた本郷部長は、にやりと嬉しそうに笑った。
下ネタ大好きセクハラ親父は、言うだけじゃなく、聞くのも好きなんだ。
そうか!
きっと、ママさんはそれを察して、わざとそういう話題を持ち出したんだ。
さすが……。

あたしが感心していると、大前さんがすかさずその話題に乗ってきた。
「いやいや、女盛りのママが何をおっしゃる。着物で隠してるけど、結構巨乳でしょう?
ねえ、本郷部長、まだまだママはイケますよねえ?」
「あらあ、嬉しいこと言ってくれちゃって! こんなおばさんでもいいの?」
「いやいや、ママみたいな美人は、おばさん、なんて言いませんよ。
本郷部長もそう思いませんか?」
「フン、まあな。だが、ママの相手は君にはまだ無理だろ。
こういう人は経験値が違うからね。君なんか、あっという間に骨抜きにされるよ」
「あらあ、そんなことはないですよ。私なんてまだまだ。
それに、私は責めるより責められる方が好きだわ」
「フッフッフ。どんなプレイが好きなんだ?
バックから無理やりか? それとも縛られるのが好きか?」
「それはまだ内緒。
そういうお話は、もう少し何度か通っていただいて、気心知れてからじゃないと、ね」
「いやー、さすが商売上手なママだなぁ」
そう言って明るく大前さんが笑うと、本郷部長もしかたなさそうに苦笑いしている。

「おい、トイレ借りるぞ」
本郷部長が席を立つと、ママさんもすっと立ちあがり、案内に立った。
2人の後ろ姿を目で追ってると、大前さんがあたしと水野さんの方に顔を寄せてきた。
「かりんちゃん、今のうちに帰った方がいい。水野、送ってやれ」
あたしは戸惑った。
「あの、じゃあ、本郷部長にご挨拶してから……」
黙って帰ったりしたら、また礼儀がなってないって怒るんじゃないかな、本郷部長。
しかし、大前さんは「いいから、いいから」とあたしと水野さんを追い立てる。
「俺とママとで、後はうまくやっておくから、気にすんな」
大前さんがそう言うと、水野さんは「それじゃお願いします」と大前さんに頭を下げた。
水野さんにも促されてあたしが席を立つと、大前さんが両手を顔の前で合わせた。
「嫌な思いさせて、悪かったね、かりんちゃん。気をつけてな」
「いえ、それじゃ、お先に失礼します」
あたしは大前さんに頭を下げ、水野さんと店を後にした。

店を出てタクシーに乗ると、水野さんが静かに話しかけてきた。
「嫌な思いさせちゃったね、大丈夫?」
「いえ、あたしこそ、取引先の部長さんなのに怒らせちゃってすみませんでした」
あたしが恐縮すると、水野さんは首を振った。
「あの人、要注意人物なんだ。
納入するシステムに関しても、いろいろ難癖つけてきててね。
僕は今まで接待には同席したことなくて、ずっと大前さんが一人でやってくれてたんだよ。
酒の席もひどいもんだって話は聞いてたんだけど、まさかあそこまでとはな。
取引先の部長でさえなけりゃ……」
苦々しそうに言う水野さんを見ると、こぶしを握り締めている。
それを見て、思い出した。
水野さん、舜のこと、殴ったんだっけ。
水野さんが今度は本郷部長を殴ったりしたら、大変なことになっちゃう!
あたしは慌てて言った。
「いいんです、その気持ちだけで。
ママさんや大前さんにも助けてもらって、何とか部長さんの機嫌も直ったみたいだし」
あたしがそう言うと、水野さんは少し悲しそうにあたしを見つめた。
「僕は何もしてあげられなくて……ごめん」
「そんな!そんなことないです!!
水野さんが隣にいてくれたから、あたし、気持ちを落ち着かせることができたんですから」
手を握ってくれたこと、本当に嬉しかった。
あたしはその気持ちが伝わるように思いをこめて水野さんを見つめた。
そんなあたしを見て、水野さんはフッと目尻を下げて、切なそうに微笑んだ。

あぁ、そんな顔されると……。
きゅんと胸の奥が切なくなる。
あたし、やっぱり、水野さんが大好き……。

「ありがとう。でも、まだまだだな、僕は。
さっきのママさんや大前さんみたいに相手の気持ちをうまくコントロールする技をもっと勉強しなきゃな」

うん、たしかに、2人の連係プレーはすごかった。
本郷部長の好きな下ネタでうまく機嫌を直して。
でも、水野さんだってあたしにとっては恩人だよ。
あたしは思い切って、大前さんから聞いたことを口にした。

「あの、さっきうなぎ屋さんで、大前さんから、昨日舜を殴ったって聞きました。
あたしのためにありがとうございました」
あたしが水野さんに頭を下げると、水野さんは目を見開いた。
「あ、聞いたんだ……。
でも、理由がどうあれ、暴力はいけなかったって反省してる。
舜君には昼間、謝っておいたんだけど」
そう言って、苦笑いして頭を掻く水野さん。
ちょっと照れてる?
そんな水野さんも新鮮でいいかも。

「あーっと、そういえば、マンガは進んでる?」
急に話題を変えた水野さんが、なんだか可愛くてちょっと笑っちゃった。
でも、本当に嬉しかったんだ、あたしのために舜を殴るくらい怒ってくれたこと。
そう言おうかと思ったけど、なんだかあたしまで照れくさくなって、水野さんの質問に答えることにした。
「この前、新しい原稿を、前とは別の雑誌の新人賞に応募しました」
「そっか、頑張ってるんだ。その賞の発表はいつ?」
「6月1日です」
「入賞できるといいね」
そう言って、水野さんはにっこり微笑んでくれた。

水野さんの笑顔、嬉しい。
水野さんの微笑む顔を見てるだけで、あたしは幸せな気分になれる。
自然と自分も笑顔になる。
あたし、やっぱり水野さんが好き。
どんなに諦めようとしても、無理。
水野さんが優しくしてくれると、あたしはその倍、水野さんになにかしてあげたいと思う。
水野さんが手を握ってくれれば、嫌なことも我慢できるし、心がやすらぐ。
水野さんに相応しい人間になりたいと思う。
そのための努力なら苦痛にはならない。
夢を追いかけてる水野さんと肩を並べたくて、あたしはマンガに一生懸命になった。
そういう自分のことも、あたしは好きだなって思う。
水野さんと一緒にいられたら、あたし、世界一幸せだ。

大前さんに聞いた水野さんの過去。
奥さんに裏切られて離婚して、それ以来女性と距離を置いてるって言ってた。
でも……。

『あいつはかりんちゃんにぞっこんだよ』

あたしでも受け入れてもらえるかな?
あたしは勇気を振り絞ってみることにした。

「「あの」」

あたしがかけた声と、水野さんの声が重なった。
「あ、レディーファースト、お先にどうぞ」
水野さんに促されて、あたしは思い切って言った。
「もし入賞できたら、お祝いしてくれますか?」
水野さんは一瞬あっけに取られたようだったけど、すぐに笑顔で請合ってくれた。
「ああ、もちろん」
「ありがとうございます。楽しみにしています」

もし、入賞できたら、そのときには……。

「あ、水野さんのお話は?」
あたしが聞くと、水野さんは、あれ?といった表情でつぶやいた。
「なんだったっけ?忘れちゃったな。
たぶんたいしたことじゃなかったんだと思う。もし思い出したら言うよ」

照れ笑いしながら水野さんはそう答えた。
水野さん、お茶目だなあ。
あたし達は顔を見合わせて笑った。

結局、あたしの家に着くまで水野さんは何を言いかけたのか思い出せなかったみたい。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
タクシーの外に出て見送ってくれた水野さんに手を振ってあたしはマンションに入った。


なんだかいろんなことがあった1日だったけど、あたしは安らかな気持ちでベッドに入ることができた。
それもみんな水野さんのおかげ。

水野さん……。
もし今度のマンガが入賞したら、そのときは告白しよう。
自分の気持ちを正直に話して、それでダメなら、しかたない。
でも、もう、気持ちを伝えないで諦めるのは無理。
こんなに大好きなんだもん。

きゅんと切なくなる胸を抱きしめて、あたしは眠りについた。