23.大前☆リーダー

翌日出社すると、席に着く間もなく、舜に腕を引かれ、非常階段に連れ出された。
「な、なに?」
そういえば、以前、ここで強引にキスされたっけ。
まさか今日はそんなことはないと思うけど……。
ちょっとビクビクしていると。
「ごめんっ」
舜はいきなり90度に頭を下げた。
「え?」
「昨夜のこと、本当に悪かった。
俺、かりんにすげぇ、ひどいこと……。
謝って済むことじゃないかもしれないけど、本当にごめん」
「ああ……」
「俺、田所さんのことですごくイラついてて、でもだからって、許されることじゃないよな。
完全に八つ当たりだった。本当にすまなかった」
あたしは舜の肩に手を掛けて、頭を上げるようにうながした。
「舜、もういいよ。
舜の言ったことは全部本当のことだし、お酒の席のことだから……」
本当は相当ダメージ受けてたけど、でも、舜を責めたって、言っちゃった言葉はもう消せないんだし。
それに、全部あたしがしたことなんだから、そのツケはあたしに返ってきて当然だし……。
頭を上げてからも、舜は「ごめん」を繰り返す。
あたしは笑顔を作り、「本当にもういいから」と、舜を引っ張って席に戻った。

席に着くと、まるであたしを待っていたかのように、内線電話が鳴った。
慌てて、受話器を取る。
「はい、パッケージ開発課第1チーム 桜井です」
「あ、かりんちゃん? 大前だが」
「あ、おはようございます」
「うん、おはよう。
いやあ、昨夜は嫌な思いさせちゃって、悪かったな」
うわっ、驚いた。
舜に続いて、大前さんまで?
朝から次々に謝られて、苦笑いが浮かぶ。
「いえ。こちらこそ、ご挨拶もしないで帰ってしまって、すみませんでした」
「いやいや、本当にごめんな。
で、そのお詫びっちゃあなんだけど、今夜、空いてるかな?」
「え? 今夜ですか?」
あ、やばい。
昨日のことを思い出して、ちょっと行きたくないなって思ったのが、声にも出ちゃったかも。
すると、さすがに、営業チームのリーダーの大前さん。
気配を察して、譲歩してくれた。
「いや、無理なら明日でもあさってでもいいんだが、ぜひ、お詫びに何か、かりんちゃんの好物をおごらせてもらおうと思ってな」
あぁ、どうしよう。大前さんに、こんな風に気を遣わせちゃうなんて。
「そんな、気にしないで下さい」
すると、大前さんはおもむろに声をひそめた。
「いやあ、実は、かりんちゃんにちょっと内密に話もあるんでね。
そのためにも、時間を取ってもらいたいんだ」
内密に、なんて言われると、気になる。
「話、ですか?」
「うん、明日からちょっと忙しくなるんで、できれば今夜、2時間くらい時間もらえないかな?
あまり遅くならないうちに切り上げるから」
「はぁ、まぁ、それなら……」
うう、結局押し切られちゃった。
でも、内緒話って、聞かずにいられないよね。
「いいか? じゃあ、定時後、下のロビーで待ってるから」
「わかりました。では、失礼します」
うーん、内密の話ってなんだろう?
気になるけど……。ま、行けばわかるか。
あたしは、気分を切り替えて仕事に取り掛かった。

その夜、あたしは大前さんと、会社近くのうなぎ屋にいた。
「何でも好きなものをおごる」と言われ、何でもいいって言ったんだけど、大前さんがそれじゃ俺の気がすまない、寿司がいいか、ステーキがいいか、うなぎがいいかって聞くから、うなぎを選んだのだ。
大前さんオススメの特上のうな重は、蒲焼がご飯の上にも下にも入っていて、すごく豪華。
うなぎはやわらかいし、タレも甘すぎず辛すぎず、あたし好みで、最高においしい。
夢中で食べていると、大前さんに笑われた。
「うまそうに食べるなあ、いい顔だ」
うわっ、恥ずかしい!
でも、新入社員のお給料じゃ、なかなかこんな贅沢なもの、食べられないんだもん。
口の中のご飯を飲み込んだところでいったん箸をおき、肝吸いをひと口飲んで、大前さんを見た。

「そういえば、何かお話があるっておっしゃってましたよね」
あたしが今夜ここに来たのは、内密の話とやらを聞くため。
あたしがそう聞くと、大前さんも箸を置いた。
「昨夜は嫌な思いをさせてしまって、本当にすまなかった。
調子に乗りすぎた、反省してるよ」
「いえ、そんなこと……」
「実はな、あのあと、ちょっと事件があったんだが、聞いたか?」
何のことか見当がつかず、首をかしげると、それを見て大前さんは話してくれた。
「かりんちゃんを追って水野が出て行ったんだが、水野、戻ってきたと思ったら、突然、舜に殴りかかったんだ」
「ええっ、水野さんが!?」
予想もしていなかった話に、びっくり!
「ああ。『言っていいことと悪いことがあるだろ! 酔ってるにしてもほどがある!』ってな」
えええええええーーーーー!?
いつも穏やかな水野さんが、暴力を振るうところなんて、想像できないよ。
でも、水野さん、あたしをかばって、そんなことまで言ってくれたんだ……。
あたしは、なんと言っていいかわからず、驚いた表情のまま固まってしまう。

「実はさ、水野、バツイチなんだが、知ってたか?」
「えぇっ、そうなんですか?」
水野さんが、バツイチ?
なんか話が飛んだ気がするけど、でも水野さんがバツイチだなんて、そんな話、今、初めて聞いた。
結婚してたことがあったんだ、水野さん。
立て続けに知らされた水野さんの知らなかった一面に、驚きすぎて、言葉が出てこない。
「あいつ、入社して2年目に結婚したんだが、1年もしないうちに別れたんだよ。
離婚の原因は嫁さんの浮気だ。
うちの会社、残業が多いだろ? 土曜出勤もあたりまえみたいにあるしな。
嫁さん、さみしかったみたいでな。で、浮気して、それが原因で別れちまった」
水野さんにそんな過去があったなんて……。
びっくりしたけど、でも、あたしは、ふと思った。
水野さん、婚約者がいるのに誘ってきた美沙子さんの気持ちがわからないって言ってたけど、そういう過去の経験も影響してたのかも。
きっと、浮気した奥さんのことも含めて、同時に2人の男性に体を許す女は許せないって思ってるんじゃないかな。

わたしが、そんなことを考えている間も、大前さんの話は続いている。
「で、それ以来、あいつ、女性と仲良くはしても、一線は越えない付き合いしか、しなくなってな。
まあ、その気持ちもわからんでもないんだが、もう2年も経ってるんだし、まだ若いんだし、そろそろ新しい恋をしてもいいんじゃないかって心配してたんだわ」
ああ、そういえば……。
水野さん、ランチや飲みに行く女友達はいるけど、それ以上にはならないって言ってたっけ。
あれ、わざと自分でそうしてたんだ。
てっきり、女性のアプローチに気づかない天然系の人かと思ってたけど、そうじゃなかったんだね。
「そしたらさ、昨夜はあいつ、ものすごい剣幕で怒ったからさ。
お、もしかしてこれは、と思ってさ。一肌脱ごうと思ったわけだ」
「はぁ……」
あれこれ考えていて、つい生返事をしたら。

「かりんちゃん、水野のこと、どう思う?」

え?
水野さんのこと?
あたしは我に返った。
「俺が言うのもなんだが、あいつはいいやつだぞ。
うちの期待のエースだしな。もうあと2年もしたら、いいリーダーになる。
顔だって悪くないし、性格も温厚だし。
どうだろう、あいつの女性不信をかりんちゃんが治してやってくれないか?」
「はぁ……?」
それってつまり……?
え、もしかして……。
水野さんと付き合わないかってこと!?
そ、それは無理!
だってあたしも、二股かけてたし。
水野さんが嫌うタイプそのものの女なんだもの。

だけど、期待をこめた目で、大前さんはあたしの顔をじっと見ている。
うー、これは、真実を知らせないとダメだな、きっと。
あたしは観念して、大前さんに正直に話すことにした。
「水野さんのことはあたしも素敵な方だと思います。
でも、昨日舜が言ってたことは事実なんです。
二股かけたことはすごく反省してて、すぐに2人とも別れたんですけど。
でも、水野さんは奥さんに浮気されたのが原因で離婚されたんですよね?
だったら、二股かける女なんて、水野さんは一番嫌いなんじゃないでしょうか。
あたしには、水野さんの女性不信を治すことなんて、とてもできないと思います」
すると、大前さんは優しく微笑んで言った。
「かりんちゃんは、なぜ、舜とも秋山とも別れたんだ?
どっちか一人でよかっただろうに、どうして2人とも振ったんだ?」
「え、それは……。
あたし、秋山さんのことは入社してからずっと仕事を教わってて憧れてましたし、舜は同期で同じ部署ですごく気の合う仲間で、2人とも好きだったんです。
で、たまたま2人に同時期に告白されて、どっちも断れなくてずるずるとつきあっちゃったんです。
でも、あらためて自分の気持ちを考えてみた時、あたしはどちらもちゃんとは愛していないことに気がついたんです。
好きだけど、愛してはいなかった。
だから、2人とも別れたんです。
あたし、今まで、一度に2人に言い寄られた経験なんてなくて、舞い上がっちゃってたんだと思います。
2人にも悪いことしたと思ったし、これからはちゃんと愛した人としかお付き合いしないって反省しました。
でも、二股をかけたのは事実です。あたしは水野さんが一番嫌ってることをしちゃったんです。
あたしなんか、水野さんとお付き合いする資格なんてないんです……」

喋っているうちに、涙がにじんできた。
なんか、あたし、イタかったかな。
「すみません、気持ちが高ぶっちゃって……」
あたしはバッグからハンカチを出して、目元をぬぐった。
そんなあたしに、大前さんは優しく言ってくれた。
「人間は誰だって過ちを犯す。
でも、その過ちに気づいたんなら、もう2度としないだろ?
かりんちゃんも、水野が好きなんだろう?」

あぁ、大前さんには嘘をつけないな……。そう悟って、あたしは頷いた。
すると。
「じゃあ、水野と付き合ってやってくれよ」
「でも……。水野さんはあたしを許してくれるでしょうか?」
すがるように問いかけると、大前さんはにっこり笑った。
「許すもなにも、あいつはかりんちゃんにぞっこんだよ」
「ええ? そうでしょうか?
昨日、二股のこと知られてしまったし、全然自信ないです」
あたしがうなだれると、大前さんはしばらく腕組みをしてから立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるわ。あ、まだ残ってるぞ、全部食っちまえよ?」
そう言って、あたしの前のうな重を指差すと、歩いていってしまった。

大前さんはああ言ってくれたけど、実際、水野さんの気持ちはどうかなぁ?
あたしのために舜を殴ってくれたっていうのは、たしかにちょっと期待しちゃうできごとだけど。
でもそれは、単に水野さんがフェミニストだからってだけかもしれないし……。

ぼんやり考えていると、席を外していた大前さんが戻ってきて、「デザートでもどうだ?」とメニューを広げて見せてくれる。
大前さんも食べるというので、一緒にクリームあんみつを注文してもらった。
デザートはすぐに来た。
30代半ばの大柄な大前さんが小さな器からクリームあんみつを食べてる姿を見てたら、強張っていた気持ちがほんわかしてきた。
と、そこへ。

「お疲れ様です!」
え?
あたしは背後からかかった声に驚いた。
水野さん!
振り返ると、水野さんも目を丸くしている。
「え? かりんちゃん?」

「ちょうど食い終えたとこだ。いいタイミングだな」
えっ?
大前さんが呼び出したの?
あたしが大前さんの顔を見ると、大前さんはにっこり微笑む。
「たいしたご馳走じゃなかったけど、これで昨日のことは許してもらえるかな」
「あ、はい、もちろんです! ご馳走様でした」
あたしが頭を下げると、大前さんはあたしと水野さんを交互に見た。
「実はな、かりんちゃん、このあと俺は取引先の部長と約束があるんだよ。
すまんが、水野に送ってもらってくれ。
ほれ水野、タクシーチケットだ。ちゃん送り届けろよ」
そして、大前さんは水野さんにチケットを渡すと、「じゃ」と手をあげて行ってしまった。

え、え、えーーーーっ!?
水野さんと2人っきり?

水野さんは「お疲れ様でした」と大前さんに頭を下げると、あたしに向き直った。
「えっと、じゃ、行こうか?」
突然のことに、うまく言葉が出てこない。
「え、でも、あの……」
すると、水野さんは苦笑して言う。
「リーダーの命令は絶対なんだ」
「はぁ……」
さっきまで大前さんと話していた、当の水野さん本人が突然目の前に現れて、あたしは混乱していた。
水野さんはそんなあたしを見て、事情を話してくれた。
「会社で残業してたら、急に大前さんから電話で呼び出されてね。
『とにかくすぐにうなぎ屋に来い』って。
まさか、かりんちゃんが一緒だとは思わなかったから、驚いたよ」
「あ、そうだったんですか……」
なるほど。事情はわかったけど。
うぅ、会話が続けられない。
大前さん、ひどいよぉ!
急に水野さんと2人っきりにしないでーっ!!