22.新人☆歓迎会

4月に入って満開に咲いた桜を、ザーザーと降る雨が散らすある日の夕方。
定時にあがったあたしと舜は、エレベーターホールに向かって並んで歩いていた。
「最近、毎日、田所さんから電話攻撃だぜ。もう、勘弁してくれって感じ」
ぼやく舜は、うんざりした顔。
「そうなんだ……」
「なあ、なんで俺が起業したがってる、なんて、田所さんに教えたんだよ。
あの人、勝手にひとりで盛り上がって、私が秘書をやってあげるぅ、なんつってきて、余計なお世話だっつーの」
「ハハハ……ごめんね。そんなことになるとは思ってなくて」
あたしは苦笑いを返すことしかできない。
「あーぁ、参ったよ」

田所さん、あれから、ずいぶん積極的に舜にアプローチしてるんだな。
悪い人じゃないと思うんだけど、舜は相変わらず苦手なんだね。
悪いことしちゃったかな……。
「本当にごめんね」
「んー、まあ、かりんのせいじゃないんだけどさ……」

あたし達がそんなやりとりをしながらエレベーターを待っていると、私達の席があるのとは反対側のフロアから、どやどやとたくさんの人達が出てきた。
「おー、かりんちゃん! それに舜も。久しぶりだな!」
「「あ、お疲れ様です!」」
あたしと舜は、声をそろえて挨拶した。
あたし達に声をかけてきたのは、大前リーダーだ。
大前さんの後ろにいるのは、どうやら営業チームの皆さんのようで、その中には、水野さんの姿も見える。
「おまえら、もうあがりかぁ?」
大前さんは、快活にそう聞いてくる。
「「はい!」」
舜もあたしも、大前さんにつられて、大きな声で返事した。
「よしっ、じゃあ、付き合え!」
そう言って大前さんは、あたしと舜の間に割り込み、あたしたちの肩に両腕を回してきた。
は? 付き合えって?
「これから新人歓迎会なんだよ」
水野さんが後ろから教えてくれる。
大前さんは頷きながら、ちょっと寂しそうな表情。
「営業事務のハルカちゃんが風邪で来られなくなってな、野郎ばっかでつまんねーんだよ。
かりんちゃんの分は俺が持つからさ。ちょっと付き合ってよ。あと、舜はついでだ、ついて来い!」
ひえ〜〜〜っ!
もしかして、またあの、大酒飲みにつき合わされれるの?
あたしは、社員旅行の時の大前さんの飲みっぷりを思い出し、タラリと冷や汗を流す。
でも、水野さんもニコニコ笑ってるし、他の営業メンバーも「おー、女の子だー」ってすでに盛り上がっちゃってて、拒否なんかできそうにない。
ふと、舜と目を合わせると、「しょーがねえな」と声に出さずに言って、苦笑いしてる。
うう……、どうやら、ついていくしかないみたい……。

「かんぱーい!」
営業チームに仮配属された新人君の挨拶の後、みんなでグラスを合わせる。
新入社員は、このあと2週間の合宿研修があり、1ヶ月社内研修を受けた後、6月に、正式に各部署に配属になる。
ほんの1年前、あたしもそうだったんだよなあ。
「お? かりんちゃん、どうした? たそがれてないで、どんどん飲め!」
ちょっと去年のことを思い出してぼーっとしてたら、左隣の大前さんにお酒を勧められてしまった。
でも、今日のあたしはチュウハイを頼んだから、ビールを注がれる心配はない。
「はい! いただきます!」
元気に返事して、グレープフルーツハイに口をつけ、少しだけ飲む。
そうそう、勧めるときは飲みたいとき、だったっけ。
これは、社員旅行で学んだこと。
あたしは重いピッチャーを持ち上げ、大前さんに「どうぞ!」と差し出した。
「おお、サンキュー」
案の定、大前さんはグラスに残ったビールを飲み干し、笑顔で「かりんちゃんは気が利くねぇ」とグラスを差し出した。
大前さんはザルだから、飲ませすぎる心配は無用だし、今日はお酌係に徹しようかな。
そんなことを考えながら、飲み会の席を見回した。
それにしても、営業チームって、すごく熱い人ばっかり。
たった10数名の宴会とは思えないほど、活気にあふれてる。
まだ始まったばかりなのに、もうすっかりみんなできあがってるんじゃないかってくらいのハイテンション。
常にどこかで誰かが大声で笑ってて、にぎやかなこと、この上ない。

大前さんの前には舜、あたしの前には水野さんが座っている。
大前さんは、話し出したら止まらないってタイプの人だから、こちらが何も喋らなくてもすごく楽しい。
過去の武勇伝や失敗談をたくさん披露してくれて、あたしはずっと笑いっぱなしだった。

「ほら、笑ってないで、飲め飲め!」
大前さんは喋りながらも周りにお酒を勧めるから、近くに座っている舜も水野さんも、すでにかなり飲まされている。
ペースが速いから、1時間もたつと、もうみんな相当酔っ払っちゃって、また例の先輩の裸踊りが始まった。
あたしは、思わず水野さんを見た。水野さんもあたしを見ていた。
水野さんの目が、「また始まったね」と、合図を送ってきたのがわかった。
こっそりうなずき、笑い合う。
秘密を共有する共犯者みたいで、ちょっとくすぐったい。
でも……。
そうしてしまってから、ドキッとした。
うわっ、今あたし、なんかすごく自然に水野さんと目を合わせちゃったよ……。

あのバレンタインチョコをもらった日以来、水野さんとは、すれ違えばちゃんと微笑んで会釈するようにはしていた。
ちょっと前に目を合わせられなかったのは、新人賞がダメだったせい、ということにしたし、次に向けて前向きに頑張るって約束したから。
普通にしてないと、また詮索されちゃいそうだしね。
でも、諦めるって決めたくせに、まだまだ水野さんが好きな気持ちが止められないあたしには、普通にするのが、すごくつらくて。
こんなふうに、目で会話なんかしちゃうと、このまま好きでいたいって気持ちが、またむくむくと首をもたげてきちゃう……。

あー、だめだめ!
やっぱり、無理無理!
あたしは二股を掛けた女、なんだもん。
水野さんが嫌いなことをしちゃった女なんだもん……。
あーぁ。
ついため息が漏れる。

あたしが自分の世界に入り込んでブルーになっていると、気づいたら、大前さんの下ネタが始まっていた。
あー、もう、しょうがないなぁ。
男の人って、こういう話、好きだよねー。
まあ、飲み会の席だし、目くじら立てるほどのことじゃないけどさ。
あたしは、場をしらけさせないように、周りに合わせて控えめに笑いながら聞くことにする。
すると、大前さんは、突然舜に話を振った。

「おい、そんなに笑ってるけど、舜だって結構やることやってんだろ?
おまえ、モテるみたいじゃないか。会社の子、何人食った?」
「いやいやぁ、大前さんとは違いますよぉ。
俺は一途ですから、こうと決めたら一人だけなんですよー」
舜はかなり飲まされたらしく、ろれつが怪しくなってきてる。
「お、言ったなあ? じゃあ、おまえの本命は誰なんだよ。
この間一緒にいたコールセンターの子か?」
大前さんが上機嫌で尋ねると。
舜は、効果音付きで答えた。
「ブブー! 違いますよぉーっだ。俺の本命はぁーーー」
そう言って、舜はパッとあたしを見る。そして、大きく腕を振りかぶった。
え?
ええええええっ?
ちょ、ちょっと待ってよ、舜!?
「やばいっ!」と思った、瞬間。
舜の振り下ろした腕が、ビシッとあたしの顔を指差した。
「ジャジャーン! 俺は、かりん一筋でーす!」

あちゃー、言っちゃったよ……。
あたしは目をつぶり、顔を伏せた。
うわぁー、まいったな。消えちゃいたい!

「おおぉっ! なにー? そうなのかぁ? おい、かりんちゃん、本命だってよ。
え、なに? 付き合ってんのか、おまえら?」
興奮する大前さんを抑え、あたしは慌てて否定する。
「違います、違います! 付き合ってないです。
舜、酔っ払って、あたしをからかってるだけですから、本気にしないで下さいよ」
しかし、せっかく取り繕おうとしたのに、舜は更に続ける。
「そうなんすよー、俺振られたんです。いいとこまで行ったんすけどねー。
でも振られても、俺、かりんには尽くしまくってんすよ。
それなのに、コイツのせいで、俺、今、大っ嫌いな女につけまわされてて。いい迷惑っすよ。
あー、でもね、俺だけじゃないですから、振られたの。秋山さんもですから!
二股かけられたあげく、二人一緒に振られたんすよ、コイツに。
すごいんすよ、かりんは、モテモテで。秋山さんなんかプロポーズ断られてんすからー」

ワー、ワー、ワーーー!!!

舜の言葉の途中から、大声を張り上げて妨害したんだけど。
あたしのそんな努力は、まったく無駄だった。
大前さんは大喜びしてる。
「おー、秋山もか? ワッハッハ、あいつ、今頃大阪でくしゃみしてるぞ!
いや、やるなあ、かりんちゃん! 秋山とは寝たのか?」
あぁ、顔が熱い。きっと、あたし、真っ赤になってる。
「な! そ、そんなこと……」
そのあと、「あるわけないじゃないですか」と続けるはずだった言葉は、舜にさえぎられてしまう。
「あったりまえじゃないですかー。お泊りした仲だもんなー、かりん。
なぁなぁ、俺と秋山さんと、どっちのHがよかった?」
「な、なに言って!」
あたしは真っ赤になった顔から、今度は血の気がスーッと引いていくのを感じた。
だって、水野さんが聞いてるのにっ!
舜の隣に座ってる水野さん、さっきから何も言わずにお酒を飲んでるけど、全部、当然聞こえてるよね。
それに舜がさっき『二股かけられた』って言ったときと、今『どっちのHがよかった?』って言ったとき、水野さん、舜とあたしの顔をちら見した。

あぁ、最悪……。

自分がしたことだから仕方ないけど、でも、水野さんにだけは、知られたくなかったのに。
終わった。
完璧にあたし、水野さんに嫌われたよ……。

でも、あたしのそんな最低最悪な気分などお構いなしに、大前さんはニヤニヤ笑いながら聞いてくる。
「いやあ、やるなあ、かりんちゃん。で、どっちがよかった?
秋山もずいぶん会社の女の子、泣かせてきたみたいだからなあ」
あたしはもういたたまれなくなって、「ごめんなさい、あたし、トイレ」と、バッグを持ってその場を逃げ出した。
背後で、大前さんの「あ、照れちゃってー」と大笑いする声が聞こえる。
もう、ムリッ!
あたしはトイレには寄らず、そのまま居酒屋から、外に出た。

居酒屋の入ったビルを出ると、外は、どしゃぶりの雨だった。
あ、傘、お店に忘れてきちゃった。
でも、もう取りに戻る気にはなれない。
あたしは額のあたりに手をかざして、雨の中を駅へ向かって走った。

あぁ、最低。
最悪。
今さっきのシーンが、何度も頭に蘇る。

涙があふれる。
舜、なにも、水野さんがいる席で、あんなこと言わなくてもいいじゃん。
ひどいよ。
でも……。
『それなのに、コイツのせいで、俺、今、大っ嫌いな女につけまわされてて。いい迷惑っすよ』
舜、よっぽど、田所さんのことで、あたしを恨んでたかな?
だったら、やっぱりあたしが悪いのか。
舜と秋山さんと寝たのもあたしだし、マンガを見てもらいたい一心で、田所さんに舜の情報を流したのもあたしだし。
結局、あたしが悪いんだよね。自業自得だ。
あー、最悪……。
もう、このまま消えちゃいたいよ……。

走り疲れてとぼとぼ歩いていると、突然、後ろからあたしの上に、傘がさしかけられた。
え?
振り返ると……。
「水野さん!」
驚くあたしに、水野さんは左手に持っていた、もう1本の傘を差し出した。
「忘れ物」
「あ、あたしの……、あの、ありがとうございました」
泣いた顔を見られたくなくて、自分の傘を受け取り、とっさに頭を下げる。
すると、じっとあたしを見ていた水野さんに、突然、抱き寄せられた。
「えっ?」
びっくりしたけど、濡れたあたしの背中を支える水野さんの左手の温かさに、また涙があふれる。
「かりんちゃん、泣かないで」
水野さん……。
嬉しい。
追いかけてきてくれて、抱き寄せてくれて。
でも。
でも、今のあたしには、水野さんにあわせる顔がない。
あたしは、やっとの思いで、水野さんの胸を押し返した。
「ごめんなさい。あたし、帰ります」
「かりんちゃん……。どこか落ち着けるところで少し話さないか?」
優しい声。
でも、その優しさに甘える資格は、あたしには、ない。
「いえ、今日は本当に帰ります。失礼します!」
あたしは水野さんの目を見ずにそう答え、返事を待たずに駅へ向かって走った。

恥ずかしい。
二股かけてたって知られて、どんな顔して水野さんと話ができるっていうの?
きっと軽蔑されたよね。

あたしはイブの夜のことを思い出していた。
『女の人って、これから結婚しようっていうのに、他の男に好きだって言えちゃうもんなの?』
そう言って、落ち込んでいた水野さん。
2人の男性を同時に、ってことで言えば、あたしも美沙子さんと同罪。
ああ、最低。

駅に着き、びしょぬれの髪をハンカチで拭く。あたしは、後ろを振り返ってみた。
水野さんは、もう追ってきていない。

失恋、決定。

あたしは、涙も一緒にハンカチで拭い、重い足取りで改札をくぐった。