20.バレンタイン☆チョコ

翌日のお昼休み、あたしは舜と、会社近くのパスタ屋さんにいた。
グラスの水をひと口飲むと、舜が聞いてきた。
「かりんから誘ってくるなんて、どういう風の吹き回し?」
あたしは、ひじをついた手の上に顔を乗せ、舜の顔を見上げて答える。
「昨日、『リリア』編集部の田所さんから連絡もらって会ってきたんだ」
「へえ」
舜は、そ知らぬ顔で相槌を打っている。

なによ、知らん振りしちゃって。

「へえ、じゃないよ! 聞いたよ。舜が頼んでくれたんでしょ?
ありがとうございました」
あたしが姿勢を正して頭を下げると、舜は苦笑い。
「なんだ、ばれてんのか。言うなって言ったのに……」
「すごく助かった。
本当なら聞けない話してもらって、次の作品描くときの参考になった。
本当にありがとうね」
あたしが重ねてお礼を言うと、舜は鼻の頭を指で掻いた。
「礼なら田所さんに言えよ」
「うん、それはもちろん。
……ただ、舜からも田所さんにお礼言っておいて欲しいんだ。
できれば食事おごるとかして、さ」

「…………」

あれ? 舜、黙っちゃった。
あたし、昨日、田所さんに頼まれたとおりに言っただけなんだけど。
舜は、じっとあたしを見つめている。というか、睨んでる?
「ん? なに?」
居心地が悪くなったあたしは、作り笑いしながら舜に聞く。

「それってさ、あの人に頼まれた?」

――ドキッ。

「な、なんのこと?」
できるだけ動揺を顔に出さないように、平静を装うけど……。
舜は、諦めたようにため息をつく。
「俺さ、学生時代あの人にずいぶん追い掛け回されたんだよね。
結構いいとこのお嬢様なんだけど、そのぶんわがままっていうか、ちょっと苦手なんだよなぁ、あの人……」

そうだったんだ……。
なんとなく、想像はできるかも。
昨日の田所さんの様子を思い出しながら、あたしは苦笑いした。

「まあ、いいや。借り作ったままにするのも嫌だしな。一度だけ食事に誘うよ」
「う、うん、よろしくね!」

田所さんの気持ちは、舜にもバレバレだったみたいだけど、まあ、これで、義務は果たせた。
あたしは、肩の荷が下りてほっとひと安心。

あたしと舜が会社のビルに戻り、自分たちのデスクに戻ろうとすると……。
あ、水野さんだ。
前を歩く舜にならって、あたしも軽く会釈する。
でも、視線は合わさないように。

水野さんを見かけると、相変わらず胸が高鳴る。
でも、諦めるって決めたんだから。
あたしは自分に言い聞かせ、水野さんの残像を頭から消去するよう努めた。

「さあ、仕事、仕事!」
口の中でつぶやいたつもりだったんだけど、舜には聞こえたらしい。
「ずいぶんやる気満々じゃん。でも、今日もそんなにやることないぜ」

うっ、そうだった。
今は暇な2月。

「え? いや、ファイルの整理しなくちゃいけないからさ……」
あたしは、さも忙しそうにキャビネットを開け、ファイルをどっさり自分のデスクに積み上げる。
そんなあたしをいぶかしげに見る舜。
うう、舜の視線、やけに痛いよ……。

今日も仕事は定時で終了。
「お先に失礼します!」
あたしは舜や同じチームの先輩方に声をかけて席を立った。

エレベーターを待っていると、開いたエレベーターから降りてきたのは、なんと、今一番会いたくない、水野さん。
外回りから戻ってきたところみたい。

あたしは慌てて「お先に失礼します」と頭を下げ、エレベーターに乗り込む。
「あ、お疲れ……」
そう言って去りかけた水野さんだったけど、急に振り返って、閉まろうとするエレベーターのドアに手を掛けてきた。
ええっ!?
驚いて水野さんの顔を見る。
「かりんちゃん、もう帰るとこ?」
水野さんに聞かれ、あたしはしぶしぶ頷く。
「はい……」
「じゃあ、下でちょっと待ってて。えっと、5分。5分で行くから、必ず待ってて!」

下で待っててって……。
水野さん、返事も待たずに身を翻して行っちゃったよ。
まいったなあ。

あたしは仕方なく1階に下りると、エントランスホールを行きかう人々の邪魔にならないように、隅の方で水野さんを待つことにした。
水野さんは、約束どおり、10分もしないうちに下りてきた。

「ごめん、お待たせ! じゃあ、行こうか?」

え? 行こうかって言われても……。
水野さんと2人きりになんてなれないよ。

「あの、水野さん、あたし、今日ちょっと予定があって……」
心苦しく感じながらも、うそをつく。
すると水野さんは、立ち止まってあたしをじっと見つめ、聞いてきた。
「かりんちゃん、最近、僕のこと避けてない?
何か、かりんちゃんに嫌われるようなこと、僕したかな?」
あたしは慌てて首を振った。
「違います、そんなことありません! 嫌いだなんて、そんなこと……」
「じゃあ、どうしてすれ違っても目も合わせてくれないのかな?」
えー、どうしよう、なんて答えよう?
本当のことは言えないし……。
「え、いや、別にそんな……」
しどろもどろになっていると、水野さんに腕を取られた。
「なんでもないんなら、付き合ってよ。いいよね?」

ひゃぁっ、水野さん?
今日の水野さん強引! なんか、今までとちょっと違う気が……。

あたしは、なかば水野さんに引きずられるようにして、会社のビルを出た。
どうしよう……。

あたしは頭を抱えながらも、水野さんの手を振りほどくわけにも行かず、に腕を引かれるままに会社近くのダイニングバーに入っていった。
お互いにカクテルを頼んだところで、水野さんが聞いてきた。
「そういえば、かりんちゃん。
応募したマンガ、2月1日が結果発表って言ってたよね。結果はどうだった?」

あ、前に話したこと、覚えてくれてたんだ。
うれしいな。
でも……。

「あ、あれ、落ちちゃいました」
「そっか、残念だったね」
「はい……」
「…………」

うぅー、会話が続かない。
気まずいよお!
大好きな人が目の前にいるのに、諦めると決めたゆえにぎこちなくなっちゃうなんて。
諦めなきゃいけないようなことをした、自分が恨めしい……。

カクテルが運ばれてきたところで、水野さんが口を開いた。
「まだ、これからも描くんでしょ?」
「はい、次に向けて今も描いてます」
「じゃあ、今回は残念だったけど、次回の健闘を祈って、乾杯」

水野さんは、自分のグラスを軽くあたしのグラスにあてる。
カチンと涼やかな音を立てて、グラスが触れ合った。
ひと口カクテルを飲むと、水野さんは一つ咳払いをして聞いてきた。
「その、最近かりんちゃんがよそよそしいのは、やっぱりアレかな、イブの時の話が原因なのかな?」
「え……」

間接的には関係あるだけに、そうだとも、そうでないとも答えられない。
直接の原因は、二股かけてた過去を自己嫌悪して、水野さんを諦めようとしてるから、なんだけど。
そんなの説明できないし。

あたしが黙っていると、水野さんは表情を曇らせた。
「イブの時の話なんだけどさ」
「はい……」
「僕のこと、軽蔑した?」

あたしは、力強く首を振った。
「そんなことはないです!
水野さんは、その、なんていうか、不可抗力だったと思うし」

うん、そうだよ!
水野さんは、美沙子さんにせまられて仕方なかったんだと思う。
考えなしに流されちゃった、あたしとは違う……。

あたしがそう答えると、水野さんは少し元気を取り戻したようだった。
「本当?」
「はい、本当です!」
「じゃあ、なんで? なんで僕のこと避けてるの?
なんで、笑顔を見せてくれなくなっちゃったの?」
「え……」

水野さんと目を合わせられないよ。

「僕さ、かりんちゃんとこんなふうになるなら、あんな話するんじゃなかったってすごく後悔しててさ。
不愉快だったよね。ごめん」

あたしは慌てて手を振った。
「いえ、そんな!」
「でもさ、避けられたままなのは嫌なんだ。
……これからも一緒に仕事していく仲間だし、僕が謝って許されるならいくらでも謝るから」
「違うんです。そんなんじゃないんです。
水野さんは全然悪くないですから、そんな謝ったりしないでください」
あたしは、頭を下げようとする水野さんを押しとどめた。
「あ、じゃあ、もしかして……。
生理的に受け付けないって感じなのかな?」
水野さんに悲しげに言われて、あたしはきっぱり否定した。
「違います、そんなことないです。
水野さんのこと、嫌いなんかじゃないです!」

ああ、ここで、好きって言ってしまえたら、どんなに楽になれるだろう。
でも、そんなこと言えるわけない。
水野さんへの気持ちは消すって決めたんだから。

でも、さっきの水野さんのセリフでわかっちゃった。
水野さんは、一緒に働く仲間としてしか、あたしのこと見てないんだ。
あたしに嫌われると仕事がやりにくくなるから、関係修復のために、こうして話をする場を設けたんだね。
会社でのトップを目指す水野さんにとって、働きやすい環境づくりも大事なんだろうな。
それだけの関係なんだって思うと、寂しいけど。
でも、水野さんの夢の足手まといにはなりたくない!

あたしは、頭を下げた。
「ご心配かけてすみませんでした。
あたし、マンガの新人賞のことでいっぱいいっぱいだったんです。
1月は合否がどうなるか心配でそれしか考えられなくて。
2月になって、落選がわかったら、すごくがっかりして。
だから、あたしが最近笑顔を見せてなかったのは、水野さんのせいじゃなくて、新人賞のせいなんです」

どうかな?
あたし、うまくウソつけた?

水野さんは、一瞬、あっけにとられた顔をして、その後、笑顔になった。
「あ、そっか。そうだったんだ。
いや、ごめん、そうとは気がつかなくて。
そうだよね。かりんちゃん、すごく頑張ったんだもんな。
そりゃそうだよな。
僕、なんかすごい勘違いしてたみたいで、ごめん」
水野さんは、頭をかいている。

よかった。
信じてくれたみたい。
あたしはほっとして、笑顔で続けた。
「これからは、もうだめだったことばかりにとらわれないで、次に向けて笑顔で頑張りますね!」
「うん、そうだね。
まだかりんちゃんのチャレンジは始まったばかりなんだから、落ち込んでないで頑張れ。
もし憂さ晴らししたかったら、いつでも付き合うしさ」
「はい、ありがとうございます」
「よし、飲もう!」
「はい!」

その日、最後まであたしは、先輩に励まされて笑顔とやる気を取り戻した後輩を演じた。


バーを出て駅へ向かって歩いていくと、洋菓子屋さんの前にワゴンが出ていた。
数日後にせまった、バレンタイン用のチョコレートの箱が山のように積まれている。
あー、そろそろ会社で配る義理チョコ、用意しなきゃなあ。
そんなことを考えながら横目でチョコを見ていたら、水野さんが急に立ち止まった。
「これ、一つ下さい」
水野さんは、チョコレートを一箱買うと、はい、と私に差し出す。
「え?」
バレンタインチョコをあたしに?
どういうこと?
普通とは逆に、男の人が女の子にプレゼントして愛を告白するケースもあるって聞いたことあるけど、これって……?
まさか、水野さんがあたしのことを!?

「あ、チョコ嫌いだった?」
水野さんに聞かれて首を振る。
「いえ、大好きですけど」
「女の子はやけ酒より、チョコのやけ食いとかの方がいいのかなと思ってさ」

あ、そういうこと。

「やけ食い、ですか……」

ちょっとドキドキしたのに!
人の気も知らないで!!

「いや、さっきも言ったけど、これからは嫌なことがあったらやけ酒でもやけ食いでも付き合うから」
「はあ……」

あー、はいはい、そうですか。
まったく……。
あたしがこっそりため息をついていると、水野さんは続けた。

「かりんちゃんには、いつも笑っていて欲しいからさ」

えっ?
水野さん……。

『笑っていて欲しい』だなんて、そんな嬉しくなっちゃうセリフ言わないで。
ダメだよ。
あたし、諦めなきゃいけないんだから。
水野さんのこと。

あたしは「ありがとうございます」とチョコの礼を述べ、それっきり水野さんの顔を見られなくなった。


帰宅してすぐに、もらったチョコの箱を開ける。
1つ、取り出して口に入れた。
苦い……。
ビターチョコレートだ。

苦いチョコレートを食べていたら、涙があふれてきた。
あたしはポロポロ涙を落としながら、チョコレートを口に運んだ。
大好きな人からもらった大好きなチョコなのに。
なんて苦いんだろう……。

水野さんを好きでいられるなら、きっとこれは宝物になった。
そうだったら、あたしはきっと食べないでずっと取っておいただろう。
でも。
誰にでも簡単に抱かれちゃうようなあたしは、あんなに優しくてまじめな水野さんには似合わない。
水野さんを好きでいちゃいけない。
諦めなきゃ。
諦めなきゃいけないんだから……。

これ全部、今日中に食べてしまおう。
チョコなんて、もらわなかったことにしよう。
残しておいたら、水野さんへの気持ちまでいつまでも残っちゃいそうだもん。

笑っていて欲しい、か……。
そうだね。
笑ってなきゃ。
水野さんを心配させちゃいけない。

水野さんのことはこのチョコを全部食べたら忘れよう。
そして、マンガに専念しよう。
うん、そうしよう。


あたしは泣きながらビターチョコレートを食べ、そう決心した。