19.美人☆編集者

翌日から、あたしは水野さんを避けるようになった。
こちらが避けていれば、わざわざ水野さんの方から、声をかけてくることはないだろうと思ったから。

遠くにいるのが見えたときは、回れ右して別の通路を行く。
期せずして、すれ違ってしまった時には、目を合わせずに会釈して通り過ぎる。
事前に、水野さんが、仕事でうちのチームに来ることがわかっている時は、自分の仕事に専念しているフリをして、話しかけられないようにふるまった。

あたしの思惑通り、接点さえ作らなければ、水野さんは、積極的にあたしに話しかけてくることはない。
ばったり会うことがなくなれば、飲みに誘われることもない。

そうして、会社は年末年始の休みに入り、年が明けると、バタバタと仕事に追われているうちに、1月はあっという間に過ぎ去り、2月に入った。


会社に入って初めて知った言葉に、『二八(にっぱち)』というのがある。
2月と8月は、閑散期で、消費が落ち込むんだそうだ。
理由ははっきりしないみたいだけど、暑さ寒さで客足が減り、景気が悪くなる、という説が有力みたい。
うちの会社は小売店ではないけど、顧客の会社が不景気になれば受注が減る、という連鎖で、やはり2月と8月は、他の月より仕事が少なかった。

そんなわけで、わりと暇な、2月初旬のある日のこと。

「なあ、かりん、そういえば、まだマンガ描いてんのか?」
暇をもてあました舜が、デスクの片づけをしながら聞いてきた。
舜とはもう、ふたりきりでデートすることはなくなった。
いろいろあったけど、また以前のように仲のいい同僚として働いている。
それはひとえに、舜がそれまでと同じ態度を変えないでいてくれるおかげだ。
度量の広い舜には、心から感謝している。

キーボードを叩く手を止めて、あたしは答えた。
「うん。実は、年末に新人賞に応募したんだけど、だめだったんだー」
「え、そうなのか?」
舜はあたしの方に向き直った。
「うん、結構頑張ったから、結果がわかったときはがっかりしたけどね。
でも、また次、頑張ろうと思って、毎日描いてる」
「そっかあ、残念だったな。ちなみにそれ、なんていう新人賞?」
「えっとね、遊論社(ゆうろんしゃ)の『リリア』っていう少女マンガ雑誌の新人賞」
「えっ、遊論社の『リリア』……!?」
「うん、結構メジャーなマンガ雑誌だよ。あたしも小学生の頃読んでたし。
でも、男の舜は、少女マンガ雑誌なんて知らないか」
「いや……、知ってるよ」
「そう? あー、なんか、思い出したらやっぱり悔しくなってきた。
せめて、どこが悪かったのか教えてもらえたら、次に生かせるんだけどねー。
まあ、向こうは何百と応募してきた原稿を見てるんだから、いちいち落選作品の評価なんてしてられないのもわかるけどね」
落選したのは残念だったけど、今回はあまり時間もなかったし、初めてのチャレンジだったので、本当のところ、それほどには落胆はしていなかった。
今はもう気持ちを切り替えて、次の作品の構想を練っている。

「じゃあ、残念会でもするか? 今夜、どうよ?」
久しぶりの舜からの誘い。
でも、あたしはもう2度と、舜とはふたりきりで出かけないって決めていた。
「ううん、それはいいよ。
今の暇なうちに、いっぱいマンガ描きたいと思ってるから、まっすぐ家に帰る」
「ふうん、そっか。じゃあ……、水野も誘うって言ったら行くか?」
舜、いまだに水野さんのことが気になるのか?
あたしは苦笑いして答える。
「だから、行かないって。今はじゃんじゃん描きたいの!」
明るくそう言ったけど、水野さんの名前を聞いて、本当は胸がうずいていた。
でも、その気持ちは胸の奥に押し込めて、あたしは再びPCに向かう。
「ふぅん、あっそ……」
舜はあたしをしばらく見つめてたけど、やがて自分もデスクの片付けを再開した。

その日の夜、舜に宣言したとおり、あたしは定時で会社をあがるとまっすぐ家に帰った。
簡単に夕食を作り、食べようとしたところで電話が鳴った。
液晶には、あたしの知らない、03で始まる番号。
いたずら? 間違い? それとも、なんかの勧誘かな?
いぶかしく思いながら、とりあえず、あたしは電話に出た。
「はい」
いたずらだと嫌なので、名乗らない。
女の一人暮らしの知恵。
すると、女性の声が、あたしの名前を確認してきた。
「桜井さんのお宅ですか?」
「はい、そうですが」
「私、遊論社の『リリア』編集部の田所(たどころ)と申しますが、かりんさんはいらっしゃいますでしょうか?」
「えっ、あ、私です!」
新人賞に応募した雑誌の、編集部からの突然の電話に、一気に緊張が高まる。
一体、なにごと?
「先日お送りくださった原稿について、少しお話したいんですけど、近日中にお会いできませんか?」
ええっ、ウソ!?
新人賞には落選したけど、編集部からアプローチがあるってことは、きっといい知らせだよね?
「はい! もちろんです。いつ、どこに伺えばよろしいでしょうか?」
「では、明日、午後6時に弊社の受付までいらしていただけますか?」
「わかりました!」
「では、明日」
そう言って電話は切れた。

あれ? なんか短い電話だったな。
無駄口はいっさいたたかず、やけに事務的だったけど……。
でも、でもっ!
『リリア』編集部からの呼び出しだよ!
一体なんだろう?
あー、失敗。もうちょっと詳しく聞けばよかったー。
ひょうっとして、入賞者が辞退とか何かあって、繰り上がり入賞とか?
それとも、落選はしたけど、いい線いってたから、うちで描いてみないかって誘いとか?
きゃー、どうしよう!
あたしは浮かれ気分で、食卓に戻った。
電話がくる前に食べるつもりだった夕食に、箸を伸ばす。
すっかり冷めた簡単な夕食も、最高の晩餐に感じられる。

明日、なに着て行こう?
今、描き始めてる新しい原稿も、持参した方がいいかな?
フフフ、なんだか、初デートの前日みたい。

あたしはその夜、翌日のことをあれこれ妄想して、なかなか眠ることができなかった。

翌日、あたしはソワソワと、一日中、時計とにらめっこ。
早く定時にならないかな。
朝からずっと、そればかりを考えて過ごしている。
そして、終業と同時に会社を飛び出し、遊論社へ。
うちの会社と遊論社とは、徒歩で15分ほどの距離だ。
早めに着いて受付に。
でも、そこに受付嬢はいなかった
その代わり、小さな看板が電話機の隣に置いてある。
『本日の営業は終了しました。御用の方は内線××をお回しください』
あたしは、少し躊躇しながら受話器に手を伸ばした。
と、その時。

「桜井かりんさん?」
エレベータから降りてきた女性が、あたしの方に向かって歩いてくる。
洗練されたスーツを着こなした、キャリア風のあたしより少し年上に見える美人。
「はい」
あたしが返事をすると、その女性はあたしの目の前で止まり、名刺を差し出してきた。
「昨夜お電話した田所です。行きましょうか」
あたしは、名刺を受け取って確認した。
 遊論社『リリア』編集部   編集者 田所綾音
昨日電話をくれた女性に間違いない。
あたしは、スタスタと歩いていく田所さんの後を追った。
田所さんは出版社を出て、すぐそばにある喫茶店に入って行く。
あれ? なんで、喫茶店?
てっきり、出版社の応接室かどこかに通されるものと思っていたので、不思議に思ったけれど、田所さんにならってコーヒーを頼む。
差し向かいに座った田所さんは、まじまじとあたしの顔を見ている。
えーっと、どうしよう? あっ、まずは自己紹介からかな?
あたしは、慌てて自分の名刺を出した。
「すみません。ご挨拶が遅れました。桜井かりんです」
田所さんはあたしの名刺を受け取り、再びあたしの顔を見る。
どぎまぎしていると、やがてコーヒーが運ばれて来て、それを待っていたかのように田所さんが口を開いた。

「で、あなたは、舜君とはどういう関係?」
「は?」
舜君?
突然出てきた、舜の名前に戸惑う。
「えっと、舜君って、中村舜君のことですか?」
「あたりまえでしょ。ほかに誰がいるのよ」
「はぁ、あの、彼とは会社の同期で、同じ部署で働いている同僚ですが……」
状況がよくわからないながらも、当たり障りのないように答えると、田所さんは目を細めて聞き返してきた。
「同僚? ホントにそれだけ?」
「はい」
「付き合ってるわけじゃないのね?」
「え? あ、はい」
何がなんだかわからないまま、頷く。
田所さんは、そんなあたしを疑わしそうにじっと見て言った。
「あなた、本当に落選理由知りたいの?」
落選理由?
って、なんのこと?
あ、新人賞の落選理由のことか。
「あ、はい、それは知りたいですが……」
「そうかしら? 本当はそんなのどうでもいいんじゃないの?」
「は? えっと、あの、どういうことでしょうか?」
話の流れが、まったくつかめない。
そもそも、なんで最初に舜の名前が出てきたの?
一体どうなってるの?
だけど、田所さんは、そんなあたしの態度にイラついている様子。
でも、何がなにやらわからないままでは、あたしも気持ちが悪い。
ここは、思い切って聞いてみるしかないよね。
「あの、すみません。
私、事情がわかってないんですが、今日、私をここに呼んでくださったのは、中村君が何か関係しているんですか?」
「……あなた、何も知らないの?」
「はい」
あたしが頷くと、田所さんは、まだ胡散臭そうにあたしを見ながら教えてくれた。
「私は舜君と同じ大学の、2年先輩なの。
で、昨日、珍しく舜君から電話があって、『リリア』の新人賞に友達が応募したんだけど落選しちゃって落ち込んでるから、落選理由を教えてやってくれないかって頼まれたのよ。
あなたが舜君に頼んだんじゃないの?」

驚いた。
舜、昨日そんなこと、ひとことも言ってなかったのに。

「いいえ、中村君に『リリア』の編集部に知り合いがいたなんて、知りませんでしたし」
しかし、田所さんは相変わらずあたしを疑うような目で見ている。
「別に『リリア』編集部に知り合いがいようがいまいが、そんなこと関係なかったんじゃないの?」
「え?」
「もともと、舜君の気を引きたくて、遊論社の雑誌に応募したんじゃないのかって言ってるのよ」
「は? どういうことですか?」
田所さんの言わんとすることが、ちっともわからない。
「だから、遊論社に応募すれば、舜君とつながりができると思ったんじゃないかって言ってんのよ!」
「……遊論社に応募で、舜と、つながり……?」
あたしが首をかしげていると、田所さんはいぶかしげな表情を見せた。
「え? もしかして、あなた、本当に何も知らないの?」
「何をですか?」
「舜君のことよ」

舜のことって……、彼がセレブだってこと?
あたしは、舜のマンションに行ったときのことを思い出した。
そういえば、今は周りに内緒にしてるけど、学生時代はみんな自分がセレブだって知ってるって言ってたっけ。
そのことを言ってるのかな?
あたしが自問自答していると、田所さんは痺れを切らしたように言った。
「舜君はね、うちの会社の、遊論社の社長の息子なの」
「ええーーーっ、遊論社の社長の息子……?」
あたしは驚きのあまり放心してしまった。
どこかの会社社長の御曹司だって言ってたけど、まさか遊論社だったなんて!
知らなかったよーーーー!
あたしが驚いていると、田所さんはため息をついて、背もたれに体を預けた。
「あなた、本当に知らなかったみたいね」
「はい、知りませんでした……」
「じゃあ、本当に、ただ単にマンガ家になりたい人なワケ?」
「はい」
「舜君とは、何の関係もないのね?」
「はい……」

いや、正確にはちょっといろいろあったけど、ここでそんなことは言うべきじゃないよね?
「あっそ」
田所さんはほっとしたようだった。
「あなた、何もわかってないみたいだから、一応教えておいてあげるわ。
舜君は、遊論社の社長の三男なの。お兄様たちはおふたりとも、重役候補よ。
私はてっきり、舜君も遊論社に入るもんだと思って、ここに入ったの。
うちの父には、父の会社の秘書になれって言われてたけど、どうしても舜君と同じ会社で働きたかったから、断ったのよ。
ところが、舜君は、遊論社に来なかった。がっかりよ」

ああ、なるほど。
田所さんは、舜が好きなのね……。
それで、さっきから、あれこれ、あたしに探りを入れてたのか。
やけに、突っかかっるような態度だったことも、それなら理解できる。

「まあ、いいわ、あなたは舜君とはなんでもないみたいだし。
でもいい? 舜君に頼まれたから、特別に教えてあげるんだから、勘違いしないでね。本来、落選者に落選理由なんて教えないんだから」
「はい」
あたしが神妙に頷くと、田所さんは持っていたバッグから茶封筒を取り出した。
「舜君に頼まれてから、私もあなたの原稿読んだけど、あなた、うちの雑誌読んだことある?」
「はい、もちろんです! 小学生の頃は、毎月買って読んでいました」
あたしがそう答えると、田所さんはじろりとあたしをにらんだ。
「そう、『リリア』は小学生向けの少女マンガ雑誌よ。
でも、あなたが送ってきた原稿、『リリア』の傾向と全然違うじゃない。
普通、投稿する雑誌の傾向くらい、合わせて描いてくるのが常識じゃないの?」
「あ……」
言われてみれば、そのとおりだった。
あたしが送った原稿は、『リリア』の読者層よりもう少し年上の読者向けの内容だ。
急に応募を決めたものだから、うっかりしていた。
「まあ、それは私の感想だけどね。
新人賞の選考をしたのは、『リリア』で描いていただいている先生方だから、落選理由はまた別よ」
そう言うと、田所さんは茶封筒を開けて、中から紙を一枚取り出した。
「いい? よく聞きなさいよ。
どの先生の評価かは教えられないし、一度しか読まないから。
『ペンには慣れている。
デッサンはもう少し練習が必要。
背景が少ない。
コマ割りが単純。
絵が個性的で良い。
キャラが立っている。
ストーリー展開は良い。
読者層が合わない。
テーマが絞りきれていない。』
以上よ」
あたしは、田所さんが教えてくれた内容をひとことも忘れないように心に留めた。
田所さんは紙をしまいながら、あたしに聞いてきた。
「あなた、今まで賞を取ったことは?」
「いいえ、今回が初めての応募です」
「ふうん。
だったら、もう少し、投稿するときの心構えみたいなものを調べてから応募した方がいいわ」
「はい、わかりました」
「ところでさぁ。
……あなた、本当に舜君と何もないんなら、私に協力しなさいよ」
「は?」
あたしは、きょとんとしてしまった。
「明日、会社に行ったら、私がどんなに丁寧に対応したか舜君に伝えておいて。
本当に、これは特別待遇なのよ。他の落選者には評価なんていっさい教えてないんだからね」
「はい、ありがとうございました」
「ここのコーヒー代もおごってあげるわ。だからいい?
舜君に、私に何か御礼をするように頼んで。どこか素敵なお店で食事でもいいわ。
ね、絶対に言うのよ」
あたしは、田所さんの剣幕にすっかり押されてしまった。
「はい、わかりました」
田所さんは、その日初めてにっこり微笑むと、さっと伝票を取り上げ、さっさと精算して、店を出て行った。
「…………」
なんか、すごい人だったなぁ。
あたしは、あっけに取られて、彼女を見送ったのだった。