16.別れ☆再出発

9月最後の日。

あたしは、秋山さんに、一緒には行けないと返事をした。
秋山さんはうすうす感じていたようで、穏やかにあたしの返事を受け入れてくれた。
「そうか、わかった。まさかこんなに突然転勤になるとは思わなかったからな。
転勤にならなきゃ、もっとゆっくりかりんと親しくなっていけたかもしれないけど。
まあ、それも含めて、俺たちは縁がなかったってことなんだろう。
潔く諦めるよ。かりん、元気でな」
「はい。秋山さんも」
自分から切り出したとはいえ、別れはつらい。
でも、ここで泣いちゃダメだ、と必死に涙をこらえた。
振ったあたしが泣くのは、反則だよね。

でも、切なくて、悲しくて、申し訳なくて、別れがつらくて仕方なかった。
愛してはいなかったけど、秋山さんには返しきれない恩がある。
秋山さんには、あたしなんかよりもっとずっと素敵な女性と幸せになって欲しい、心からそう思った。

そうして、秋山さんは大阪へ旅立って行った。


10月も半ばを過ぎる頃。

秋山さんがやっていた仕事は、グループ内の残ったメンバーで引き継いだので、だれもが以前よりも忙しくなった。
舜とも仕事中に無駄口をたたきあう暇もなく、もちろんデートもしていない。
舜が美沙子さんとどうなっているのか、ちょっと興味はあったけど、あたし自身も連日の残業と休日出勤とで、体力気力ともに、余裕がなかった。
夜遅くまで残業して家に帰り、コンビニ弁当で夕飯を済ませて、お風呂からあがると、もう12時。
土曜は休日出勤で、日曜はたまった洗濯や部屋の掃除、食料品の買いだめで1日が終わる。
10月に入ってからずっと、そんな日々の繰り返しだった。

「あ、水野さんだ……」
ある日、あたしはエレベーターホールの前で、外回りに行くらしい水野さんの後ろ姿を見つけ、こっそりため息をついた。
マンガ、描かなくちゃなぁ。
水野さんに合わせる顔ないよ……。

あたしは水野さんと飲みに行った後、新人賞に応募することを決め、再びマンガを描き始めた。
ところが、仕事の忙しさを言い訳に、三日坊主になっている。
べつに、水野さんにマンガを描くことを宣言したわけではないんだけど、社内で水野さんを見かけるたびに、なんとなく後ろめたい気持ちになる。
「ハァー」
ため息をついて、自動販売機からアイスティーの缶を取り上げていると、
「幸せが逃げてくぞー」
頭をポンと叩かれた。
振り返ると、そこに立っていたのは……。

「舜!!」
「なーに、ため息なんかついてんだよ、まだ午前中だぜ」
舜は小銭を自動販売機に入れながら、あたしの顔を見て笑う。
あたしも、力なくへらっと笑って見せた。
こんなふうに舜とおしゃべりするの、久しぶり。
SEって個人作業が多いから、一日中誰とも話さない日もある。
最近はあたしも舜も、黙々と働いていたから、口をきくこと自体、久しぶりだ。
あたしの取り繕ったような笑顔を見た舜は、眉間に小さくしわを寄せた。
「かりん、大丈夫か?」
あたしは、さっきよりも笑顔を大きくして頷く。
「うん、大丈夫だよ!」
そんなあたしを見て、舜も表情を和らげる。
「最近、忙しいけどさ、俺、かりんに話があるんだわ。
今週末、ちょっと時間取れるか?」
あ、もしかして、美沙子さんとのことを話してくれるのかな?
あたしは頷いた。
「土曜の夜でいい?
休日出勤するから、夜6時以降なら空いてる」
「OK。どうせ、俺も土曜は出るつもりだったから、一緒に会社出よう」
あたしは笑顔で了承した。

そして、約束の土曜日。
あたしは回転寿司がいいと提案して、以前行ったことのある、安くておいしい店に舜を引っぱって行った。
舜が案内してくれるお店は、たしかにおいしいけれど、あたしには敷居が高すぎてリラックスできないんだもの。
「へえ、案外うまいもんだな」
カニの味噌汁を口にしながら、舜が微笑む。
「よかった。
『まずいからよそに行こう』って言われたらどうしようって、内心ドキドキだったんだ」
あたしは笑いながら、大好きないくらの軍艦巻きの皿を取った。
「それで、舜の話って何?」
あたしは気になっていた話を早く聞きたくて、舜を促した。
すると、舜はやや言いにくそうに、あたしの顔色をうかがう。
「いや、俺じゃなくてさ、かりんの話。
どうなったんだよ、秋山さんとは」
「ああ、そのこと……」
なーんだ、舜の話ってあたしのことか。
てっきり、美沙子さんの話かと思っていたあたしは、ちょっとがっかり。
すると、舜は憤慨したように言う。
「『ああ』、じゃないだろ。プロポーズされてたんだろ?
秋山さん、大阪行っちゃって、かりん、どうすんだよ?」
あたしはいくらの軍艦巻きをゆっくり味わい、ごくんと飲み込んでから答えた。
「んとね、その話は断ったよ」
「え?」
舜は、手にした中トロの皿を宙に浮かせたまま、動きを止めた。
「だから、断った、プロポーズ。
あたしは秋山さんとは結婚できませんって、ちゃんと断って、秋山さんも了承してくれた」
「そっか……」
舜は中トロの皿をテーブルに置き、しかし、それには手をつけずに、あたしの顔を見つめてきた。
そして、目を輝かせて、私の方に身を乗り出してくる。
「じゃぁ、かりん、俺と……」
「あー、ストップ!」
あたしは舜をさえぎり、舜の顔を正面からしっかりと見て、宣言する。
「あたし、舜ともやっぱり付き合えないから。
舜のことはいい友達だと思うけど、付き合うとかそういう対象とは思えないから。
だから、ごめんなさい」
そう言って、あたしは頭を下げた。

舜と美沙子さんがどうなってるのか、すごく気になるけど、それとこれとは別。
きちんとけじめはつけないとね。
もうあたしは流されない。
ちゃんと、自分の意志を貫くって決めたんだ。

あたしが頭を上げると、舜は悔しそうな表情。
「ほかに好きなやつがいるのか?」
「え?」
「それって、水野?」
「えええっ?」
なんで、ここで水野さんが出てくるの?
意表をつかれた。
驚くあたしをよそに、舜は続ける。
「かりん見てれば、気づくよ。
最近、かりん、水野のことばっか目で追ってるもんな」
「え、そんなことないよ!
水野さんは、そういうんじゃないし」
あたしは焦って、否定した。
だって水野さんは、あたしに夢を思い出させてくれた人だから、感謝はしてるけど、それだけだもん。
一緒に飲みに行ったのだって、この間の1回きりで、それっきり誘われてもいないし。
そもそも水野さんは、総務の先輩と仲良くランチに行ったりして、付き合ってるかもだし。
美沙子さんとだって、頻繁にメールしてるみたいだから、ただの先輩後輩って関係だけじゃないかもしれない。
ん? だとしたら、舜も最近美沙子さんと会ってるみたいだから3人は三角関係?
だとしても、そこにあたしは入ってないわけで……。
あたしは、一瞬のうちにそんなこんなを頭に浮かべて、どれから言うべきか、そして言うべきじゃないのはどれか、などと考えて……。
だけど、あたしが何か言うより先に、舜が口を開いた。
「じゃあ、なんでだよ?
一度は受け入れてくれたよな、俺のこと。
でも、秋山さんにもプロポーズされて選べないからって、断ってきたんだろ?
だけど、その秋山さんはもういない。
だったら、もう何の障害もないはずだろ?」
「だ、だから、あたしは、舜のこと、本気じゃなかったの。
舜には本当に申し訳ないけど、本気で好きじゃないんだって、気づいたの。
でもそのことと、水野さんとは全く関係ないから!」
あたしは必死に水野さんのことを否定したけれど、舜は納得できないといった表情であたしに顔を寄せてきて囁く。
「ベッドでかりん何度も言ったよな。『舜、好き』って。
あれは嘘だったのかよ」
「な、なんてこと言ってんのよ。こんなところでやめてよ!
あの時はそう思ったんだけど、でも違ったの。
違うって気づいたのよ」
あたしは舜の家での夜を思い出し、赤面しながら抗議した。
「んでだよ、くそっ!
あいつとももう、ヤッたのかよ? 俺よりあいつの方がよかったのか?」
舜、なんてこと!
カウンターじゃなく、テーブル席を選んでよかった。
あたしは周りのテーブルを窺いながら、声を押し殺して反論した。
「だから、違うって!
水野さんとはそういう関係じゃないし、好きでもなんでもないから!」
「そんなの信じられるか!
かりん、あいつが打ち合わせでこっち来ると、いっつもソワソワしてんじゃん」
「ソワソワなんてしてません!」
「してるって!」
「してない!」
「してる!」
そこまで言われて、あたしはキレた。
「そんなに言うんなら、あたしだって言うけど、美沙子さんと朝までカラオケ行ったそうじゃない?
舜こそ、美沙子さんと付き合ってんじゃないの?」
「はあ?」
「ネタは上がってんのよ! 白状なさいよ」
「飲みに行っただけだっつーの。
つーか、その情報だって、水野から仕入れたんだろ?
やっぱおまえら、デキてんじゃねーか」
「たまたま聞いただけよ!
でもね、言っておくけど、あたしはその話を聞いてもこれっぽっちもなんとも思わなかったんだから。
嫉妬のかけらも感じなかったの。それで気づいたの!
あたしは舜のこと、好きなわけじゃないんだって。
本当に好きなら、そんな話聞いたら少なからず妬くもんでしょ?
でも、あたし、なんとも思わなかったのよ……」
勢い込んでまくし立てていたあたしだったけど、最後はなんだか申し訳ないような悲しいような気持ちになって、声も小さくなっていった。
あたしのその様子を見て、舜も頭が冷えたようだった。
「…………」
「…………」
お互いに気まずくなって、食べるでもなく、喋るでもなく、ただテーブルを見つめて座っていた。

先に口を開いたのは、舜の方だった。
「美沙子さんと会ってたのは、事実だよ。
俺さ、実は、いつか起業したいって、ずっと思っててさ。
美沙子さんの話、すごく参考になって……。
それで、あの日、かりんが先に帰ったあと、メアドと携帯番号交換して、暇なとき誘ってくれって頼んだんだ」
「…………」
「でも、別に、浮気とかそういうんじゃなくて、ただ、起業のノウハウみたいなの教えてもらっただけだから」
「…………」
「信じられないかもしれないけど、それは本当だから」
「……いいの」
「え?」
あたしは舜を見つめた。
「だから、舜が美沙子さんと付き合うなら、それでもいいの、あたし。
さっきも言ったように、本当にあたし、それについて嫉妬とかしてないから」
「……でも、俺は、本当に浮気するような男じゃないから」
「うん、わかった」
「本当にわかってんのかよ」
「わかってるって」
「……つまり、俺が浮気する男だろうがそうでなかろうが、どうでもいいわけだ、かりんにとっては」
「……うん、そうだね」
「……おまえ、相当ひでえこと言ってるって自覚ある?」
「うん」

そうだ、あたしはひどい。
舜を傷つけるようなことを、わざと言ってる。
いっそ舜に嫌われてしまえばいい、そう思って、あえてぶっきらぼうな態度を取っていた。
でも、怒るかと思った舜は、怒るよりもあきれたみたい。
「あーぁ、まいったな。完全に俺の負けか」
舜は両手で顔を覆って、天を仰ぐ。
「別に、勝ち負けじゃないでしょ?」
あたしがそう言うと、舜は両手で前髪をかきあげて、あたしに向き直った。
「で、水野は?」
まだ言う?
舜、相当水野さんが気になるんだね。
でも、水野さんとは本当に何もないし、水野さんに迷惑がかかるのも避けたい。
あたしは、正直に答えることにした
「だから違うって。なんにもないよ。
一度、たまたま仕事帰りに駅で一緒になって、ご飯食べに行っただけ」
「ふうん」
舜は、疑わしそうにあたしを見ている。
だめだ、信じてない。
あたしは畳み掛けた。
「その時に、舜と美沙子さんが会ってるって聞いたの。
あと、水野さん、自分の夢について話してくれてね。
それに影響されて、あたしも、自分の夢を実現できるように頑張ってみようって決心して。
あたしさ、マンガ家になりたいんだ。
でも、最近、忙しいから描けてなくて。
水野さんが来たときにソワソワしてたんだとしたら、それはちゃんと夢に向かって進んでる水野さんに対して、あたしが三日坊主になちゃってて、情けなくてっていう理由からだよ」
「ふうん。夢を語られて、惚れちゃったわけだ」
「だから、違うって!
それに、水野さんはほかに付き合ってる人いそうじゃん。
あたしなんか、相手にしないよ」
「そっかあ?」
「美沙子さんとだってどうかわかんないし、会社の人と付き合ってるかもだし」
すると、舜は意味ありげに苦笑した。
「なによ」
「なんか、かりん、必死だなあ、と思ってさ」
「だって、舜が誤解するから……」
「かりん、ホントにあいつが好きなんだな」
「だから、違うって言ってんじゃん」
「いいや、違わない。
そうやって、自分にも言い聞かせてんだろ?
その時点で、もう完全に……」
しかし、舜はその後は最後まで言わずに、ハァーとため息をついた。
そして箸を取り、かなり前に自分の前に取った中トロの握りを口に運ぶ。
あ、あれ、もう表面乾いてるんじゃ……。
「うわっ、マズ!」
案の定、舜は顔をしかめた。
あたしは舜の前からさっと皿を取り上げ、残ったもう一つの中トロを自分の口に放り込んで言った。
「置きっ放しにしてたからだよ、もったいない。
新鮮なの握ってもらいなよ」
舜は少し驚いたようにしばらくあたしの顔を見つめてから、カウンターの中にいる板前さんを呼んだ。
「すいませーん、大トロとアワビ!」
「あたし、エンガワとハマチ!」
便乗してあたしも叫ぶと、舜はあたしの顔を見てニヤリと笑う。
「なあ、かりん」
「ん?」
「いや、やっぱ、いいや」
「なによ、気になるじゃん」
「俺さ……、諦め悪いかも」
「え?」
「俺にできることがあったら、いつでも言えよ。
より戻したい、とかはいつでもOKだし」
「より戻したい、とかはないと思うけど……でも、ありがと」
あたしが微笑むと、舜も微笑み返してくれた。

あたし達は、そのあとは、食べることに集中した。
ううん、集中するフリを、お互いにしてたのかもしれない。
でも、もう、どちらからも、話を蒸し返すことはしなかった。
たぶん、あぁは言ってたけど、舜はあたしのこと、諦めてくれたんだと思う。

満腹になって店を出たところで、舜に次に行こうと誘われた。
でも、あたしは断った。
すると舜は「そっか、じゃあ、また来週な」と手をあげてあたしに背を向けた。
いつかみたいに、強引に手を引っぱって行かれることはなかった。

バイバイ、舜。

あたしはその場で、舜の後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。