15.あたし☆夢

あたしは、パジャマでベッドに寝転んで、串揚げ屋での水野さんとの会話を思い返していた。

夢。
あたしの夢……。
水野さんに、夢は何かと聞かれ、言えずに胸の奥にしまったものが、あたしにはある。
水野さんには隠せても、自分に嘘はつけない。
あたしの夢。
それは……。

――マンガ家になること

あたしは、中学・高校時代、部活でマンガを描いていた。
いわゆる少女マンガ。
小学校2年生の時から、月刊の少女マンガを読み始め、やがて見よう見まねでイラストを描くようになり、中学に入るとストーリーを作ってマンガを描くようになった。
短大に入ってからはバイトや遊びで忙しくなり、あまり描かなくなってしまったけれど、今でもたまにペンをとる。
それは、ちょっとしたいたずら描き程度のものだけれど。
でも、マンガ家になることは、あたしのいまだ完全には捨てきれない夢……。
高校1年の時に、描きかけたまま放置してしまったマンガが一つあって、今でもそのマンガを完結させたい気持ちが、心の奥にある。

なんだか目が冴えてしまったので、ベッドを下り、しまってあった、その描きかけの原稿を引っ張り出してみた。
もう何度も見て、完全に頭に入っている、絵とストーリー。
でも、改めて見ると、絵の稚拙さが目立つ。
ただ、読み返すたびに、これを描いた頃の気持ちが蘇ってきて、胸が締め付けられる。

あたしの、たぶん初めての、真剣な恋。

結局、叶わなかった恋だけど、あの時の、切なくて苦しいほどだった気持ちは、今でも忘れられない。
あの頃、あたしは、本当に"彼"が好きだった……。


高校1年。
知らない子ばかりの新しいクラス。
引っ込み思案だったあたしは、なかなか友達ができなくて。
ある日、教科書を忘れてしまって、どうしようとおろおろしていたら、隣の席の彼が、気づいてくれた。
「忘れたの? 一緒に見よう」
そう言って、机をくっつけてくれた。
それがきっかけで、ぽつりぽつり話をするようになって。
球技大会のバスケで大活躍した彼に、恋に落ちた。
やっとできた友達にも恥ずかしくて相談できず、まして彼本人に告白なんてできなくて、ずっと心にしまっていた恋。
だけど、ある日、彼に彼女ができて……。
告白する前に失恋しちゃった。
枕をびっしょり濡らすほど泣いたけど、それでも、好きな気持ちは変わらなかった。
席替えで隣じゃなくなっても、こっそり彼の姿を目で追っていた。
彼を見ているだけでドキドキした。
それだけで、十分幸せだった。
そのうえ、一緒に文化祭の準備をしながら、くだらない話で笑い合ったりもできたし。
仲のいい女友達、その位置が、あたしには宝ものだった。
あの日までは……。

ある日、たまたま帰りが一緒になって、3月で学校を辞めなきゃならないって聞かされた。
お父さんの会社が不渡りを出して倒産して、高校の授業料を払えなくなったって。
あたしはその日、帰ってすぐに調べた。
なんとか彼が、学校を辞めないで済む方法がないかって。
でも、高校生のあたしに、家で調べられることなんて、たいしてなくて。
翌日、ドキドキしながら職員室に行って、それまでふたりきりで話したことなんかなかった担任に、勇気を出して聞いてみたんだ。
担任の先生は、私の話を聞くと、奨学金制度の資料を大きな封筒に入れて渡してくれて、あたしはそれを、その日の放課後、せいいっぱいさりげなさを装って、彼に渡した。
こういう方法もあるみたいよって。
封筒の中身を見て、彼は微笑んでくれた。
「ありがとう」って。
でも、「もう決まったことだから」って。
すごく淋しそうに微笑んだんだ。
あたしは涙を我慢して「余計なことしてゴメンネ」って、教室を飛び出した。

彼のためなら、なんでもしてあげたかった。
あたしが小学生の時から使わずに貯めているお年玉貯金だって、丸々全部あげたいくらいだった。
でもきっと、そんなことじゃだめなんだ。
彼の家族の問題だから。
自分の無力さが情けなくて、つらくて、悔しくて。
失恋したときより、もっとつらかった。
2年になったら、もう彼に会えなくなるなんて。
遠くから顔を見ることもできなくなるなんて。
想像するだけでもつらかった。
彼女じゃないから、彼の携帯番号もメアドも知らない。
あたしは彼にとって、教室の中だけの友達。
彼が学校を去ってしまったら、もう二度と、彼には会えなくなるんだ。
もう、二度と……。

3学期の修了式の日。
「メアド教えて」
そのひとことを、あたしはどうしても言えなかった。
勇気がなくて。
断られるのがこわくて。
彼女でもないのにって、思われたくなくて。
みんなの前で堂々と泣くことのできる彼の彼女が、うらやましかった。
勇気のないあたしは、ここで泣くことさえ許されない、そんな資格はないんだって、唇をかんだ。
そして、彼とはそれっきりになってしまった……。


そこまで思い返して、ふと、今の自分の気持ちと比べてみた。
あたし、あの時みたいな恋、してるかな?
秋山さんはついてきて欲しいってプロポーズしてくれたけど、あたしは?
あたし、あの頃彼を想っていたように、秋山さんを想ってる?

顔を思い浮かべるだけで胸がきゅんと切なくなって、会いたいと思うだけで涙が出てきちゃうような、そんな恋してる?

違う。
うん、やっぱり違う。
あたし、彼を好きだったようには、秋山さんのこと純粋に想ってはいない……。

経済力があるとか、
仕事ができるとか、
料理もできるとか、
理想的な結婚観を持ってるとか。
そういうのって、その人が結婚相手に向いてるのかどうかの"条件"だよね。
あたし、"条件"ばっかり並べてたんだ。
でも、そんなの違う。
そんな条件なんて、関係ない。
大事なのは、あたしが本当に秋山さんを愛しているかどうか。

あたし、何を迷ってたんだろう?
あたし、秋山さんのこと、愛してないじゃん。
あの頃、本気で、純粋に彼を愛してたようには、秋山さんを想っていない。

たしかに秋山さんは素敵な人で憧れてた。
でも、憧れと愛情は別物だよね。
こんな簡単なこと、なんであたし気づかなかったんだろう。

あたしは、高1の時に描きかけたマンガの原稿に、もう一度目を落とした。
そこには、不器用だけど、本気の恋をしていたあたしがいた。
それを見ていたら、こみ上げてきた涙で視界がにじんだ。

あたし、こんなに真剣に人を好きになったことあったんじゃん。

高1の自分に叱られたみたい。
かりん、何やってんのよって。
ありがとね、高1の時のあたし。
あたし、すごく大きな間違いをするところだった。
気づかせてくれて、ありがと。
よかった、間に合って。
秋山さんには、ちゃんと断ろう。
一緒には行けませんって。
よかった、ちゃんと気づけて……。

あたしは原稿を両手に握り締めて、いつの間にかポロポロ涙をこぼしていた。
今度はちゃんと、受け入れてくれるかな、秋山さん。
ううん。
受け入れてもらわなきゃ。
だって、愛してないんだもん。
しょうがないよね。
ごめんなさい、秋山さん……。

あたしは、原稿をしまった。
でも、涙が止まらない。
悲しいのとは違う。
うれし泣きでもない。
自分でもなんだかわからない涙が、いつまでも止まらなかった……。

1時間も泣いただろうか。
「スゥー、ハァーーー」
やっと泣き止んだあたしは、一つ、大きく深呼吸をした。
そして、決心した。
あたし、やっぱり、もう一度描こう。
マンガ、最高!
人を愛する気持ちを、こんなふうにストレートに思い出させてくれるマンガが、やっぱりあたしは大好きだ。
恋に迷った誰かの、道しるべになるようなマンガを描きたい!

水野さん、夢を思い出させてくれて、ありがとう。
あたし、もう一度描きます!