8.本当の気持ち ― 8

翌31日、私は、終業後すぐに会社を出て、吉祥寺駅からJR中央線に乗った。
東京駅までは快速で30分だから、7時半までには、余裕で着けるはずだった。
ところが。
「ご乗車のお客様には、大変ご迷惑をおかけしております。ただいま、阿佐ヶ谷駅付近にて人身事故がありました関係で、各駅に電車が停車しております。今しばらく、車内にてお待ちください」

隣の荻窪駅に着いたところで、いきなり足止めを食らってしまった。
なんで、こんなときに……。
そう思うけれど、荻窪からじゃ、他の路線に乗り換えることもできない。
せめて、吉祥寺を出る前なら、井の頭線で渋谷に出てっていう手もあったのに……。
そう思っても、じっと待つことしかできない。
イライラと気をもんでも、どうすることもできず、時間だけが過ぎていく。
降りて、タクシーで行く?
でも、帰宅ラッシュのこの時間帯じゃ、渋滞に巻き込まれる可能性が高い。
そう思うと、電車を降りる決心もつけられない。
結局、電車に乗ったまま、復旧を待ち、運転が再開されたのは、45分後だった。
頭の中で、必死に計算する。
うん、大丈夫、まだ間に合うはず!
お願い、早く、東京駅まで連れてって!
宮部に会わせて!
手を合わせんばかりに、思いつく限りの世界中の神様たちに祈る。
でも、復旧したばかりの電車は、前の駅につまっている電車に合わせて、のろのろとしか進まない。
やっと東京駅に着いたのは、7時20分過ぎだった。

ドアが開くと同時に走った。
東京駅は広い。そして人が多い。
エスカレーターも構内も、人にぶつからないように気をつけながら、最大限の速さで走った。
お願い、間に合って!
日頃の運動不足を後悔しながら、やっとの思いで、新幹線の改札にたどり着く。
だけど。
――ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……。
無情にも、7時半ののぞみは出発したあとだった。
念のため、ホームを端から端まで見てみたけど、やっぱり宮部の姿はない。
ぐったりと、ホームの壁に背中を預ける。
あー、もうっ!
がっかりだよ……。
せっかく、佐奈と由梨に背中を押してもらって、ここまで来たのに。
ふたりになんて言おう。
ちゃんと、頑張ったよって、報告するつもりだったのに……。
泣きそうな気持ちになりながら、しぶしぶ体を起こす。
もう、ここに用はない。
帰ろう。

そう思って、ひたいの汗を拭きながら、歩き出した時だった。
「あの……」
後ろから声をかけられ、立ち止まる。
振り返ると、見覚えのある、精悍な男性。
「あっ! 黒沢さん……、ですよね?」
思わず叫ぶと、黒沢さんは、ニッコリ微笑んだ。
「やっぱり、あのときの!」
会社にいらした時に会ったきりだけど、私の顔を覚えていてくださったらしい。
「すみません、急に声かけて。宮部の見送りに来られたんですよね?」
「あ、はい。でも、間に合わなかったみたいで……」
苦笑いすると、黒沢さんは気の毒そうに顔をゆがめた。
「えぇ。さっき行ってしまいました」
「ハハ、そうですか。黒沢さんも見送りに?」
「はい。あの、ひとつ、お聞きしたいんですが」
「はい、なんでしょう?」
「宮部の、姫、というのは、あなたのことですか?」
「あぁ、はい。葛西姫子と申しますが?」
宮部から私の名前を聞いたんだろうか。
首をかしげていると、黒沢さんは、ひとりうなずいている。
「そうか。あなたでしたか……」
「あの、私がなにか?」
すると、黒沢さんは、真顔で言う。
「少し、お時間いただけませんか?」
「え……?」
「宮部のことで、お話があります」
「はぁ……」

黒沢さんの勢いに押される形で、セルフサービスのコーヒーショップに入る。
おかしな人ではないだろうし、宮部のことなら、聞きたい気持ちもある。
席に着くと、黒沢さんは切り出した。
「宮部から、僕のことは聞いておられますか?」
「はい、少しだけ。大学時代の友人だと」
「そうです。実は僕も、あなたのことを宮部から聞いて、少しだけ知っています。宮部は、あなたを『大切な人』だと言いました」
宮部が私を、『大切な人』って……。
嬉しい。宮部、ちゃんと、私のこと好きでいてくれたんだ。
本人から聞くより、黒沢さんから聞いた方が、なお嬉しいかも。
「でも、今日、あなたのことを訊いたら、あいつ、あなたのことを諦めることにしたって言ったんです」
「はぁ……」
やっぱりね。避けられてたのは、別れたいからなんだね。
でも、『諦める』ってどういうこと? 振られるのは私の方なのに。
いぶかしく思っていると、黒沢さんは、苦しそうに眉を寄せた。
「僕のせいなんです」
「はい?」
「いや、僕の、というか、美里の、というか……」
美里さん……。やっぱり、美里さん、宮部となんかあったんだ。
「僕と美里は、大学時代に付き合っていました。そのことは聞いていますか?」
「はい。大学4年のときに、黒沢さんが急に留学して消息を絶ってしまって、最近まで探していた、と聞きました」
「僕が消息を絶った理由は、聞きましたか?」
「いえ、そこまでは」
「僕は、逃げ出したんです。あのふたりから」