6.父の想い ― 5

お父様にいとまを告げ、タクシーを拾うために上ってきた坂を下りて大通りに向かう。すると。
――ポツン。
「あっ、降ってきた!」
空に向けた手のひらの上で、雨粒が跳ねた。
「あー、俺、傘持ってこなかったわ。タクシー、来ないかな」
宮部は坂を振り返るけれど、残念ながらタクシーはまったく見えず、そんなことを言ってる間にも、雨はどんどん強くなる。
慌てて、持っていた傘を開き、宮部にも差しかけた。
「あ、サンキュ。俺が持つよ」
「うん、ありがと」
素直に傘を渡したけど……、これって、相合傘ってヤツだよね。
私、相合傘って初めてだ。
肩がぶつかるほど距離が近くて、ドキドキする。
ザーザー降り出した雨に閉じ込められて、宮部のつけてる香水の香りがほのかに漂ってきて……。
きゃー、なんだか照れくさいな。
でも、右をそっと見上げると、宮部は平然としている。
うーん、宮部は、相合傘の経験あるのかな?
なんとなく、慣れてそう……。
あーぁ、私ばっかりドキドキしちゃって、ちょっと悔しい。
すると。

「姫のシャンプーの匂い、好きだな」
「えっ!?」
いきなり、なに?
眉をひそめて宮部を見上げると、鼻を私の頭にくっつけてくる。
「シャンプーの匂いじゃない? これ」
「きゃっ、ちょっと宮部!」
「うん、やっぱりそうだ」
突然の宮部の行動にどぎまぎする私とは対照的に、宮部は満足そう。
そっか、私が宮部の香水に気づいたのと同じように、宮部にも私の髪の匂いが届いたってことね。
当たり前のことなんだろうけど、逆は、恥ずかしい。
汗臭かったりしないかな? 私……。
ちょっと離れよう。
半歩左にずれて歩いていると、宮部はのんびりした調子で。
「相合傘って、いいもんだなー」
なんてつぶやいたかと思うと、傘を右手に持ち替え、左手で私の肩を抱いてきた。
「ちょっ、宮部!」
「もっとこっち来ないと濡れるよ?」
「いや、あの、わかった。自分で寄るから、この手はちょっと……」
離れるのは諦めて、肩の手を断ってみたんだけど、宮部は意に介さない。
「いいから。誰も見てないし。俺、相合傘って初体験だから、楽しませてよ」
「はぁ?」
宮部も初体験っていうのは、一緒で嬉しいけど、楽しませてよっていう宮部の感覚は、ちょっと私には理解しがたい。
こんなにピッタリくっついて相合傘って……、恥ずかしいなぁ、もう。

「あ、あれ、バス停じゃないかな? あそこで待ってて、バスかタクシーか、先に来た方に乗ろう」
「う、うん……」
結局、肩を抱く手はそのまま。
ドキドキが止まらなくて、つい、うつむいてしまう。
「ねぇ、姫も、相合傘、初めて?」
「うん……」
「そっか。姫の初体験、ひとつゲット!」
「なにそれ?」
嬉しそうに言うから、苦笑交じりに突っ込むと、宮部はクスクス笑う。
「これから、いくつ姫の初体験、共有できるかな?」
「え?」
思わず顔を上げると、宮部はバスの来る方を見ながら、ほんのり微笑んでいる。
「一緒に、いろんなことしたいな」

……もうっ!
そんなこと言われたら、期待しちゃうよ?
肝心なことは言わないくせに、こういうことはサラッと言うんだから……。

そのとき、突然宮部が話を変えてきた。
「でも、来てよかったな。これで優華さんさえ説得できれば、どうにか破談は回避できそうだし」
「あぁ、うん、そうだね」
一気に現実に引き戻され、優華様とお父様のことに頭を切り替える。
宮部の言うとおり、あとは、優華様を説得するだけだ。
でも、ここまで連れてきてくれたのも、お父様の気持ちをやわらげてくれたのも、宮部。
私ひとりでは、とてもこううまくは事が運ばなかっただろう。
宮部には、いくら感謝してもしきれない。
「いろいろありがとうね、宮部」
礼を言うと、宮部は微笑んで首を振る。
「いや。ところで、優華さんの携帯番号は、お客様カードに書いてある?」
「うん」
「じゃぁ、善は急げっていうから、これから会社行くか?」
「そうだね。今日中に優華さんに連絡取りたい」
「よしっ、じゃぁ、佐藤マネージャーに連絡入れとくか」

宮部は私の肩から左手をはずして、ポケットからスマホを取り出した。
「あ、じゃぁ、傘は私が持つよ」
片手では操作しづらいんじゃないかと、気を利かせたつもりだったんだけど。

「うわっ!」
下ろしていた右手を勢いよく上げた弾みで、宮部の手からスマホを弾き飛ばしてしまった。
「きゃぁっ、ゴメン!」
あわてて拾ったけど、スマホは、水たまりに落ちてびしょぬれ。
「これって、防水……」
「じゃない」
「だよね……。ゴメン。電源入る?」
「いや、こういうときは乾くまで電源入れない方がいいって聞いたことあるんだ」
「そうなの?」
「うん。濡れてると、電源を入れて通電した瞬間にショートするらしい」
「ええっ、じゃぁ、どうすれば……?」
「きれいに拭いて、2、3日乾かしておくと復旧するんじゃなかったかな」
「そうなんだ……。本当にごめんなさい」
頭を下げると、宮部はハンカチで拭いたスマホを、またポケットにしまいながら笑う。
「いいよ、大丈夫だから。とりあえず今は俺の使えないから、姫ので会社に連絡してくれる?」
「わかった……」

あぁ、失敗しちゃった……。
自分のドジさ加減がイヤになる。
自分のスマホで会社にかけると、「貸して?」と手を出してきた宮部に、「はい」と渡した。
「あ、宮部です。お疲れ様です。佐藤マネージャー、いますか?」

二言三言話した宮部が電話を切ると、ちょうどそこにバスがやってきた。
私たちは、傘をたたんでバスに乗り込み、八王子駅に向かった。