6.怒った☆カレ


月曜日、あたしがデスクにつくと、隣の席の舜はすでに出社していた。
「あ、舜、おはよう」
「…………」
挨拶の声をかけても、返事はない。
そりゃそうだよね。
キスして、一緒に帰る約束もしてたのに、あたしは何も言わずに消えて、あれだけ連絡も貰ってたのに、折り返し連絡もしなかったんだもん。
怒ってて当然よね……。

あたしは舜から目をそらし、仕事の準備を始めた。
今日からリーダーの秋山さんは出張で不在。先輩の指示をあおいで、あたしは仕事にかかった。
隣の舜も、一見黙々と仕事に専念しているように見える。でも、舜がいつもとまったく同じではないことが、あたしにはわかる。
普通に前を向いてパソコンのモニターに目をやっていても、隣の席との間に仕切りはないので、舜の様子はあたしの視界に入ってくるんだよね。
舜の方から、いつになくピリピリした空気が伝わってくるのを、あたしは痛いほど感じていた。

自分が悪いんだけど、針のむしろに座ってるような気分。
早く、お昼にならないかな。何度も時計に目を走らせる。でも、こういう時に限って、なかなか針は進まないんだ。
うう、しんどいなぁ……。

やっと昼休みを知らせる音楽がスピーカーから流れ、あたしは急いで財布を持って立ち上がった。
一刻も早く、舜の隣の席から逃げ出したい。
がやがやと食事に向かう人々の列に続いて、オフィスのフロアからエレベーターホールに出る。この時間は、一気にみんなが外に向かうから、エレベーターホールは、満員電車並みの混雑。
人ごみの後ろで、やっと舜の隣から逃げ出せたことにほっとしていると、ぐいっと後ろから腕を引っぱられた。

えっ!?
振り向いて、息をのむ。
舜!
舜はあたしを、非常用の外階段の方へ引っぱっていく。つまずきそうになりながら、引っぱられるままに、重い非常ドアの外の踊り場に出た。

重い扉を閉めるやいなや、舜はいきなりあたしを抱きしめてキスしてきた。
抵抗する間もなかった。
噛み付くような勢いで口内を蹂躙され、さらに胸をわしづかみにしてくる。
驚いて舜を押し返し、かろうじて唇だけ引きはがした。
「舜、いやっ、やめて!」
でも、舜はあたしの言うことなど聞いてくれず、首筋に顔を埋めて舌を這わせ、スカートに手をかけてくる。
「やだっ、本当にやめて、会社なんだよ!」
それでも舜は一言も発しない。
こんなのやだっ!
黙っている舜がだんだん怖くなってきて、あたしは舜から逃れようと必死にもがいた。
「ねぇ、舜、本当にやめて! この間のことは謝るから!!」
それでも、舜はあたしをいたぶることをやめない。
やだやだっ、今日の舜、怖いよ!
「舜、やだよっ! お願い、もうやめて。なんでも言うこと聞くから!!」
あたしが半泣きで懇願すると、舜はやっと手を止めてくれた。
「……なんでも?」
あたしの顔を覗き込んで、低い声で聞いてくる。
手を止めてくれたことにほっとして、あたしはウンウンと何度も頷いた。
「なんでも聞くよ、約束する」
すると、舜は少し思案してから言った。
「じゃあ、今夜付き合え」
「今夜?」
「ああ。今日は残業しないであがれ。俺もそうするから」
あたしに拒否権はない。
「……わかった」
「今日は逃げるなよ。まぁ、今日はあいつがいないから、大丈夫だとは思うけど」
あいつ、とは、もちろん秋山さんのことだろう。
大きく頷くと、舜はやっとあたしを解放してくれた。


終業時間が来た。
あたしはバッグを持ち、まだキーボードを打っている舜に、小さな声で「先に出てるね」と声をかけた。
舜が頷くのを見て、席を立つ。
会社の人達にあれこれ詮索されると嫌だから、あまり目立つところで待っていたくないな。そんな風に思いながら、駅へ向かってゆっくり歩く。
少し行ってから会社を振り返ると、舜が出て来るのが見えた。
まっすぐの道だから、舜にもあたしが見えてるだろう。
駅に向う人たちの邪魔にならないように、あたしは自分の背丈ほどもある植え込みを背に、道端に立ち止まって舜が追い付くのを待つことにした。
すると、舜が女子社員の誰かに呼び止められた。
遠目だけど、女子社員が舜を誘ってるらしいのがここからでもわかる。
……舜ってやっぱりモテるんだなぁ。
舜は断ったらしく、女子社員に手を挙げると横道に消えた。

あれ? どこ行っちゃったの?
あたしがここにいるのは舜にも見えてたと思うんだけど、あたし、置き去り?
でも、約束したんだし、ここはあたしが舜の後を追うべき? 迷っていると、さっき舜に断られてた女子社員が目の前に歩いてきた。
顔見知り程度の、人事の美人な先輩。あたしは軽く会釈した。向こうも素知らぬ様子で会釈を返してくれたけど、舜を誘ってるところを見ちゃったあたしは、なんとなく気まずい思いを抱きながら、先輩を見送った。
やがて彼女が駅の階段の向こうに消えた後も、舜の姿はどこにも見えない。
彼女をやり過ごすために横道にそれたんだと思うんだけど、舜、ほんとにどこ行っちゃたんだろ? 電話してみようかな……。
そう考えてバッグからケータイを出した時。

「かりん!」
突然背後の植え込みから声をかけられ、あたしは飛び上がった。
「舜!?」
振り向くと、植え込みの隙間から、舜が手招きしている。 
いつのまに、こんなとこに!?
植え込みを回りこんでそちら側に行くと、舜はあたしの手をつかんで、駅とは違う方へ歩き出した。
「舜、どこに行くの?」
あたしを引っぱるように早足で歩く舜に、小走りについて行きながら声をかける。
「会社の人に会うと面倒だから」
そう一言だけ、舜は答えた。
うぅ、まだ怒ってるっぽい。
これ以上、あれこれ聞かないほうがいいかも。
あたしは黙って舜についていくことにした。

しばらく歩いて大通りに出ると、舜はタクシーを止めた。車中でも舜は無言。
しばらく走ってタクシーが止まったのは、ベイサイドのオシャレなお店が立ち並ぶエリアだった。
車を降りた舜について行くと、一軒のフレンチレストランに入って行く。
えっ、ここ?
なんか、すっごく高そうなお店なんだけど……。

ウェイターに案内されて、キャンドルのともる窓際の席につく。
クリスマスでも誕生日でもないのに、こんなお店、来たことないよ……。
高級なお店の雰囲気に圧倒されて、緊張する。
一方、舜は慣れた様子でワインを選んでいる。
すぐに運ばれてきたワインをテイスティングする姿も、様になってる。

うそ……。なんだか、いつもあたしをからかってるやつとは別人みたい。
なんで、こんな高級なレストランで、そんなに堂々としていられるの?
あたしは舜の意外な一面を見て、驚いていた。

「何か食べられないもの、ある?」
メニューを開いている舜に突然聞かれ、あたしは慌てて首を振った。
すると、舜はニヤッと笑い、
「じゃぁ……グリーンピースのフルコースにする?」
と聞いてきた。
あっ……!
以前、コンビニ弁当のピラフのグリーンピースをよけて食べてたのを見られ、からかわれたことを思い出す。
あたしは子供の頃からmグリーンピースだけはどうしても食べられないんだ。
それを知ってて、舜はイジワルを言ってるんだ。くやしい。でも、今日は何でもいうこと聞くって約束だし、高級レストランにふさわしい振る舞いしないと。
あたしは顔が熱くなるのを意識しつつ、丁寧に頼んだ。
「グリーンピース抜きにしてください」
「オッケー」
舜はクスクス笑いながらそう答え、ウェイターにてきぱきと料理を注文し始めた。
その様子も、こんな高級店なのに、まるで常連さんみたいに手慣れていて。
あたしは、そんな舜をまぶしく感じながら見つめた。
ほんとに、いつもとは別人みたい……。
でも、舜、今、笑ってくれたよね。
よかった……。
今日、初めて舜の笑顔を見られた。やっぱり、舜の笑顔はほっとする。やっと、いつもの舜の顔を見られた感じ。

舜が頼んでくれた料理は、どれも美味しかった。
夢中でフォークに刺した料理を口に運んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げると、舜が笑顔であたしを見ている。
「ん? なに?」
「いや。やっぱり美味いもん食べてる時のかりんは、いい顔するなあと思ってさ」
「ちょっ、な、なに言ってるのよ!こっち、見ないでよ。食べづらい!」
「ふーん、そんな反抗的な態度とっていいと思ってるワケ? なんでも言うこと聞くんだろ? ほら、どんどん食べろよ」
くぅっ!それを言われると返す言葉がない。
あたしは、しぶしぶ、また料理を口に運ぶ。うっ、見られてるよ……。何がそんなに面白いんだか、舜は、ニコニコしながらあたしを見ている。うぅ、食べづらい。
でも、やっぱり料理は美味しくて。あたしは、すぐに舜の視線を忘れ、また料理に夢中になった。

そして、コースの最後はデザート。
舜がデザートに選んだのは、あたしの大好きなチョコレートケーキ。
うーん、美味しい!
あたしは、大満足ですべてを平らげた。

あれ? 食事終わっちゃったんだけど。
舜はまだ、先日のことを何も、あたしに問い質してきていない。
その話をするために、食事に誘ってきたんじゃないの?
舜、何を考えてるんだろ?

食事を終えて店を出ると、舜は「今夜はまだ帰さねーからな」とあたしの手をつかんで歩き出した。
次に舜が向かったのはクラブだった。

大音量で音楽が流れる店内に入ったかと思うと、しかしすぐに、あたしは防音のきいた小部屋に連れて行かれた。
これって、VIPルーム!? 初めて入った!
ふかふかのじゅうたんに、おしゃれなガラステーブルと豪華な織りのカバーのかかったソファ。壁の一方はガラス張りで、そこからは、地下のフロアが見下ろせるようになっていた。
へえ、こんな風になってるんだ……。
あたしが、生まれてはじめてのVIPルームに感動してキョロキョロしている間に、舜は、慣れた様子で柔らかそうなソファーに腰を下ろしている。
長い足をゆったり組んで、いかにもくつろいでますって、感じ。
さっきのレストランでも思ったけど……舜って何者?
今まであたしが知っていた、明るくて楽しい同僚の舜とは、全然違う面ばかり見せられて、あたしは戸惑っていた。
「なに突っ立ってんの、座れば?」
舜に言われ、あたしもソファーに座る。
いつの間に頼んだのか、ウェイターがカクテルを二つ運んできた。
「あ、これ……」
それは、先日パーティーで舜が頼んでくれたのと同じカクテルだった。
「乾杯」
舜の掲げたグラスに、あたしもクラスを持ってカチンと合わせた。
「おいしい……」
どうして舜は、カクテルでも料理でも、あたしの好きなものがわかるんだろう。
ふと、そんなことを考えてたら。
「セックスオンザビーチ」
「はあぁ?」
突然舜がおかしなことを言い出すから、思わずカクテルを吹き出しそうになった。
でも、舜はクールな表情で続ける。
「このカクテルの名前」
カクテルの名前?
ああ! そう言えばこの前、聞いたんだっけ。だけど、すごい名前……。
「本当はおととい教えるつもりだった」
静かに舜に言われ、あたしは声もなく俯く。
そう、だよね……。
「……ごめんなさい」
「謝るなよ。だいたい何があったかは想像つくから。でも、あっちもマジみたいだし、俺も本気で行くから、覚悟しろよ」
本気?
あたしは、じっと見つめてくる舜の目を見つめ返した。
舜……。
「本当はさ、もっとゆっくり付き合って行きたいと思ってたけど、もうなりふり構ってらんねーから、全部さらけ出すことにした」
舜はグイッとカクテルを飲み干すと、あたしの手を掴んで立ち上がる。

全部さらけ出す?
どういう意味だろうと首をかしげながら、あたしはまた舜に連れられるまま、クラブを出た。